ね、好き嫌いが多いと思うんだよね、セロリってやつは。
ベジタブル界の匂いのクセ強ランキングがあったとしたら、トップ10は堅実に狙えそうな感じよね。
相当こき下ろしているように聞こえるが、セロリは嫌いだったか?
あんまし。
これってさ、いつ頃来た野菜なのかな?
ファーストコンタクトとった日本人は、ぜったい「クサッ」っていってそうだよね。
か、どうかはさておき、クセ強いのは確かだな。
(日本人以外からすれば、納豆も相当なものに感じると思うが)
誰こんなの持ってきたんだろうね。
宣教師とか?
海外から入って来たものすべてがそうとは限るまいに。
一説によると、ある戦国武将が持ち込んだという説があるぞ。
え? 誰?
関係する単語を3つ出すから、少し考えてみろ。
虎退治・築城・七本鎗……はいスタート。
……一休さん!
はずれ!
……というか、一休宗純は槍など扱ったことないだろう。
むしろ武将ですら無いんだが……アレか? 虎退治にひっぱられたな?
セロリを持ち込んだのは清正公?

時は戦国、天下人・豊臣秀吉の治世でのこと。
武将・加藤清正が文禄・慶長の役(1592~1598年)から帰国した際に、セロリを持ち帰ったという説が存在している。
なーんだ武将って、加藤清正のことだったんだ!(思い出してみたら、戦国無双にも出てたしなあ)
さっきの築城ってワードは、彼が作った熊本城を指してたんだね。
そういうことだ(もう少し上手い単語の振り方があったかもしれないと、反省したいところだが)。
今のセロリとはちがうものだった?
清正が持ち帰ったというセロリだが、のちに清正人参という名で呼ばれたそうだ。
なんつー安直なネーミング。
安直すぎて逆に好感持てるんだけど!
分かりやすいから別に良いと思うが。
だがこのセロリは東洋種と呼ばれるもので、今我々の食卓に上る西洋種のそれとは異なるようだぞ。
調べによると、東洋種のセロリは細身で香草や薬草に近い品種であったとか。
恐らくだが、朝鮮や近辺の中国ではこれが自生、あるいは育てられていたのかもしれないな。
へえ。
ところでさ、清正って戦いに行っただけじゃなくて、植物採取なんかもやっていたってこと?
そんなのに目移りして、余裕感じられるよね。
植物採取は目的の内に入っていないだろうから、たまたまだと思うがな。
大体清正でなくとも、他国にしかない珍しい植物を持ち帰るということは、誰しもあり得る話じゃないか?(清正の場合は領地の民のためか、秀吉公への手土産か……)。
戦いの最中であらばともかく、その合間にたまたま生えていたのを見付けたのか……。
もっともこれは本人に聞いたような話ではないけどな。
ふーん。
それもそうだけど、なんで人参って呼んでるのかな。
セロリだよね。
裏付けとなる資料が探せなかったから、もはや推察の域になってしまうのだが……。
私は朝鮮人参(高麗人参)とかんちがいしたのではと考えている。
「人参」という単語から結びつけるのであればだが。
朝鮮人参って漢方とかに入っていそうなアレ?
ほっそーいやつ。
そうだ、持ち帰った当時のセロリがどのようなものかは分かりようがないがな。
たとえば清正が朝鮮人参の存在をも知っており、かつこの時のセロリが朝鮮人参と見た目が似ている。
「ならば」と持ち帰ったのかもしれない。
んなことってあるかな。
あるいは成長した状態でなく、種の状態で持ち帰ったのであれば見た目では分からないからな。
それに清正人参という呼び名も恐らく本人が名付けたとは思えないし、別な誰かがそう呼び出したという考え方も出来るだろう。
しかし、あくまで「加藤清正がセロリ(と思われる植物)を持ち帰った」という言い伝えにすぎないのだから、そのあたりのことは確かめようがないな。
朝鮮人参だと思ったけど、いざ育ててみたらぜんぜんちがってたってケースか。
かの戦国武将のカンちがいだった可能性があるってことね。
でもこの話って説なのはわかるけど、けっこう謎が残るよ。
実際、本人にインタビューしたいとこだよね。
「西洋セロリ」は江戸時代にやってきた
清正が持ち帰ったとされる東洋セロリに対して、我々が現在食べている西洋セロリは、江戸の後期に長崎出島にやってきたオランダ船によって持ち込まれた。
そういう経緯からこのセロリは別名・オランダミツバとも呼ばれるそうだ。
ボクも調べてみたんだけど、セロリって元々、地中海原産みたいなんだよね。
きっとだけど、これが今出回ってるほとんどのセロリのご先祖様なんだと思うけど。
そこから数多のセロリの品種が産まれたのだろうが、当時のセロリはまだ食用には向いていなかったというぞ。
この間にもヨーロッパではすでに食べられていたとしても、日本で食材として本格的に用いられるようになったのは、時代がずっと後の明治に入ってからだ。
さらに昭和に入ると国内での栽培も進み、現在での「肉厚で食用向きの西洋種」は私たちにとってすっかり身近な食材となった、というわけだな。
食用じゃなかったっていうあたり、やっぱり昔の人らも「匂いキッツ!」って思ってたからかな?
あとこれも調べて分かったことなんだけど、ヨーロッパの方でも、当時は美味しい野菜っていうより、それこそハーブとか薬草扱いだったみたいなんだけど……。
何でも古代ギリシャでは、セロリは薬や香油の材料にも使われていたんだっていうよ。
大昔での利用はそうだったとして、それが食用の野菜にまでなったのは、やはり近年の品種改良の賜物だな。
現代の西洋料理ではその独特の香りを活かして、スープや煮込みなどに使われるだろう?
明治に洋食文化が一気に広まった影響で、それらの料理に使われるセロリも常食出来るものとなったのは、納得のいく話といったところか。
加藤清正についても少し
ここで武将・加藤清正についても少々ふれておきたいな。
セロリのことはあくまで余話だからな。
本当はほかにも数多い逸話や、活躍があった武将であることも挙げておかないとな。
このままじゃボクの中で、セロリ武将のイメージが出来ちゃうところだったもんね。
んじゃ、清正さんについて語ってよ!
そうしたいところだが、うっかり事細かに語ってしまうと、セロリではなく清正の話の方がメインとなってしまうからな。
そうなると食べ物でなく歴史人物よりの話にまでおよんで、カテゴリちがいになる。
ゆえに今回は最初の方で投げかけた、加藤清正に関する単語にそってふれるだけにしておくぞ。
虎退治で名をはせた
虎退治についてだが、これは朝鮮出兵の際に遭遇した虎を、清正が一騎打ちで制したという言い伝えに基づいている。
※史実かどうかは不明なものの、わりと有名な話だな。
それにわざわざ言うまでもないが、虎は食物連鎖の頂点に君臨するような猛獣だ。
たとえ武器をもってしても、危険な相手であることはまちがいない。
これを清正は見事撃退して見せたということだ。
※経緯や状況にも複数の説があり、一説では虎を鉄砲にて倒したとも言い伝えられている(退治したことには変わりないので、こちらが事実だとしてもあながちまちがいでもない)。
そんな猛獣をホントに一騎打ちで倒したんだったら、清正には「勇猛果敢な武将」ってイメージが結びついて当たり前ってとこだね!
築城の名手
清正は城造りの名手としても知られている。
現在でも、自身が築城に深く関わった熊本城が観光名所となっており、日本三名城(名古屋城・大阪城・熊本城)の一つに数えられていることが、その証明だな。
どうでも良いけど三大〇〇って呼ばれることって、日本じゃ特に多いよね。
ちなみに熊本城は「武者返し」と呼ばれる石垣の構造が特徴のひとつだ。
これは、石垣の下部が一見緩やかで登りやすく見えるものの、上部になるにつれ急角度に反り上がっている造りとなっている。
つまり、人間がたやすく登れないようになっているわけだ。
この造りから察しても、熊本城が外敵に対して非常に堅牢だったことがうかがえるな。
敵から攻められにくいっていうのも、良い城の条件だよね!
また、熊本城の別名は「銀杏城(ぎんなんじょう)」とも呼ばれ、清正が飢饉対策として城内にイチョウを植えたことに由来する。
城造りに食糧対策まで盛り込んでいたワケだな。
わー……抜け目ないね。
これら卓越した築城の工夫により、清正は「築城の天才」とも称えられることになったんだな。
実は先ほど挙げた名城のひとつ、名古屋城の築城にも清正は関わっていたとされている。
名城二つの建設に携わっているのだから、そう呼ばれるのも当然といえば当然だろうな。
七本鎗の1人
柴田勝家と秀吉公が争った天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で目覚ましく活躍し、武功を立てた七人の武将。
すなわち福島正則・加藤清正・片桐且元・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則のことを指して、七本鎗と呼ぶぞ。
その中でも清正は天下分け目の関ヶ原の戦いの後、肥後(熊本)54万石を所有する大大名までになっている。
正確には、秀吉公からかつて肥後国の一部を与えられ、関ヶ原の後には※ついに肥後一国の領主となり、家康公に改めて領地を安堵された形だな。
※かつてはキリシタン武将の小西行長と肥後国を二分していたが、関ヶ原後に行長領を統合して、名実ともに肥後の大名となった。
すごいね!
武将らしく、戦いがきっかけで出世の道が開いたんだね。
だが清正をはじめとした七本鎗のその後はさまざまで、いわば七者七様の道をたどっている。
特に動きがあったのは関ヶ原の戦いの前後だが、かつての主君である豊臣家から離れ、徳川についた武将が大半だ。
また豊臣方に残ったものの、関ヶ原後に没落したと伝わっている武将もいる。
これら武将の中で大成した1人が、清正というわけだな。
※七本鎗メンバーのほとんど(加藤清正も)は、関ヶ原の戦いのおり、元の主の豊臣方ではなく徳川方に与したとされている。たとえば清正と並び立つ秀吉古参の武将・福島正則も徳川に与し、約50万石の大名となったものの、後に幕府から領地を没収されている。なおこの中で名目上も西軍(豊臣方)に属した糟屋武則は、関ケ原の後に没落し、浪人の身に下ったといわれている。一般的に伝わる結果だけをみると、七本鎗全員が成功を収めたワケではなかったようだ。
まとめ
①セロリは戦国武将・加藤清正が朝鮮出兵時に東洋種を持ち帰ったとされるが、現在食べられているのは後に伝来した西洋種である。
②加藤清正の「清正人参」伝説は推測も多く、朝鮮人参と間違えた可能性など、真相は不明な点が多い。
③セロリは元々薬草扱いだったが、品種改良と洋食文化の普及により、今では一般的な食材となった。
コチョンどのだって、臭い臭いといいながらも、セロリの出汁が溶け込んでいるものを当たり前に食しているはずだ。
それこそスープなどな。
そういうのって、セロリの原型はないし、ほかの食べ物のエキスも混ざってるし、あれだけ主張されてないんだから別に良いの。
メインで食べたくないってだけ。
単体だと攻撃力高いしょ、あいつ。
(あいつって……)
私はそこまで思わないんだがな。
食べようと思えば、生食も出来るし。
でもさ、それも近年の品種改良で農家の人達が一生懸命育てて、ようやく食べれるようなもんになったからってことじゃん。
だって昔は香草扱いだったんだからさ。
何だったら昔のセロリは生食なんて到底不可能な、もっと強烈に臭かったものだったかもしれないんだよ。
……まあ、その可能性も否定できないな。
そうだとしたら、その昔のセロリの芳香を最初に嗅いだ人間は、きっとこういっただろうな。
じゃもうコレだね!
「クサッ!!」
「クサッ!!」
了。
泉秀樹 『戦国なるほど人物事典(愛蔵版)』 PHP研究所 2006年 112-113頁(加藤清正の項)
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