1日40キロ歩く脅威のスタミナ!?奥の細道で有名な松尾芭蕉は忍者だった?

ねえカエデ。

キミってくノ一じゃん。

なんだ突然。

どうせなら「忍び」と呼んでくれた方が良いんだがな。

あーごめん…。

言いやすいから勘弁してよ。

あのさ、松尾芭蕉って人居るじゃん。

ボクは単純に俳句の名人ってイメージだったんだけど、実は忍者だったって説をネットで見たことあってさ。

キミ、同業だからなんか知ってるのかなって。

ふむ。

俳聖・芭蕉の名くらいはさすがに知っているが、忍びだったという話があるのか?

少なくとも私は聞いたことが無い。

そっかー。

まあカエデが知らないんじゃしょうがないやね。

じゃあただのウワサってことか。

待て。

せっかくだから芭蕉が忍びだった説とやらをくわしく聞こうか。

調べた情報と照らし、私の忍びとしての経験とも合わせて信じられそうなものか判断することは出来るだろう。

あ、ちょっと乗り気?

じゃあ本職の目線でもウワサ分析をお願いします!

芭蕉忍者説

江戸を生きた超有名な俳人・松尾芭蕉が忍者だったという説が存在した。

説の元になる情報は複数あったが、まず芭蕉が忍びの里として有名な伊賀の出身であること。

芭蕉の母が伊賀忍者と関係が深い百地一族の人間ということ。

芭蕉自身が奥の細道の旅路2400キロを、45~46の年齢にして5ヶ月で歩き切った脚力の持ち主だったということなどが芭蕉忍者説の話のタネとなっている。

これらの情報が説の信頼性の高さを感じさせたが…。

ちなみに奥の細道とは江戸・深川から出発し、日光→奥州→北陸→美濃までの旅路について俳句を折り混ぜて書かれた芭蕉による旅行記のことである。

またこの旅ルートを現代で当てはめると東京から東北を周り、山形を越えて新潟、金沢を経由して岐阜の大垣までの行程となる。

奥の細道という道が本当にあったワケではない。

説には色々ムリがある?

芭蕉って忍者で有名な三重県の伊賀出身らしいんだよね。

これだけでも芭蕉が忍者だったってことと関係ありそうなんだけど、どうかな?

確かに伊賀は※服部半蔵保長(はっとりはんぞうやすなが)の出身ということもあって、土地柄からも忍びにまつわる言い伝えは多いだろう。

が、ここで重要なのは芭蕉が伊賀のどこの家(一族)の出身かだ。

大体私からすれば忍びだと正体がバレている時点で失格なのだがな。

※半蔵とは服部家当主が代々受け継ぐ名のことで、その初代である保長は伊賀出身の忍びと伝わっている。また息子の正成(まさなり・まさしげ)は忍びではなく武士として家康に仕えた忠臣で江戸城・半蔵門の元になった人物ともいわれている。

(カエデが堂々と自分のことを忍びって公言してるのはツッコんで良いのかな…)

その家の話だけど芭蕉のお母さんが伊賀の百地って一族の出身だって話があるんだよね。

それに百地三太夫って有名な伊賀の忍者も居るじゃん。

ゲームだと戦国無双とか信長の野望とかにも出てくる人なんだけどさ。

芭蕉もその百地の血を引いてるっていう話はどういうことかな?

三太夫の話は少し脱線するから後でな。

大体忍びの一族の血を引いているからといって当人も忍びだということにはならないだろう。

それに母君が忍びだったという話も聞いたことがないな。

そもそも芭蕉の母君は伊賀ではなく、伊予の生まれらしいぞ。

それも伊予には桃地(ももち)という一族が存在していて、一説では母君はその家の出という話だ。

少なくとも今は読み方が同じだけでそれぞれ別の一族と思った方が良いだろう。

もっとも読み方が同じだからこそ混同して伝わったということもあり得そうだがな。

ちなみに伊予の国とは今の愛媛県だ。

伊予柑(いよかん)という名産ミカンがあるだろう?

その愛媛県だ。

ボク、ミカン大好き!

まあ伊賀と伊予なら距離も離れすぎてるしね。

でも百地と桃地って読み方が同じだから何か関係ありそうなんだけど?

ネコはミカンなどの柑橘(かんきつ)類は苦手と聞いたが。

それはそうと百地と桃地の関係についても一応調べてみたんたが、残念ながらはっきりと関係性があるかどうかの答えまでは分からずじまいだった。

すまない。

いやーキミのせいじゃないっしょ(メタ的なこというと筆者のリサーチ力不足だね)。

忍び自体がミステリアスな存在だから、くわしく歴史に残っている方がきっと不自然なのかもよ。

そう言ってもらえると私も救われる。

だがその桃地家は伊達政宗公家臣の藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊予から伊賀へと城を移す際、共に渡ったという話は聞いたことがあるぞ。

あ、それはけっこう有益な情報っぽいね!

それに高虎は伊賀忍の雇い主でもあったとか。

が、その話だけで母君が忍びであったという証明は出来ないだろう。

出身がまことにその桃地であったとして、もしくは伊賀に渡った際、百地に名を変えたとしてもだ。

それも母君に関してのくわしい情報を見付けられなかったのでな(もし本当に忍びならむしろ詳細不明なのが正解だが)。

あれ?

じゃ芭蕉のお母さんは説とぜんぜん関係ないのかな。

母君がはっきり忍びと分かる書物などが見つかれば、話はちがってくるだろうな。

ちなみにさきほどの百地三太夫についてだが、そもそもその人物は三太夫という名ではなく伊賀忍頭領・百地丹波(ももちたんば)その人だといわれているんだ。

ひょっとすると三太夫という呼び名は通称か、あるいは真田十勇士のように架空とされる存在なのかも知れないな。

えー…じゃ百地三太夫って創造上の忍者かもって話?(調べれば調べるほどロマンがなくなっていくような…)。

じゃあ最後に芭蕉が45、6才の時、奥の細道の道のりを1日40キロ歩いたって話。

全部で600里…今で言うと2400キロも歩いたんだってさ。

5ヶ月かかったらしいけど足腰すごくない?

しかも江戸時代の40代ってけっこう高齢な感じがするし!

それって忍者くらい特別な人間じゃないとムリくない?

「シタタタタ!」って、こうやって走ってさ!

想像したらちょっと面白いね、ブフッ!(否定されるの分かってるからヤケだよもう)

忍びが全員そんなヘンテコ効果音の走り方なワケないだろう。

それに当時でも40代は別に高齢でもなく、70以上まで生きていた者もそれなりに居たとされている。

平民と比べるワケではないが、かの徳川家康公は75まで生きたというぞ。

へー家康さんが75才かあ…現代だとまだ若いおじいちゃんっていえそうだけどね。

でもやっぱりその時代だと長生きってイメージなんだけどな。

家康公は自身の健康に細やかな人物だったらしいからな。

さて距離の話に戻るが、そのくらいなら忍びのように並外れた者でなくても踏破(とうは)出来るぞ。

想像してみてくれ。

2400キロ・5ヶ月と聞けばたいへんな長旅だとは思うが、それだけの時間と当たり前の体力さえあれば達成出来そうな気はしないか?

ついでに1日十里、つまり40キロ歩いたということについてだが、これも恐れるほどの脚力ではない。

この歩行距離は当時の旅人にとって当たり前のことなんだ。

それに芭蕉が…いや芭蕉でなくても毎日40キロ歩いたと思うか?

芭蕉はその距離をほかに目もくれないで毎日スタコラ歩いたんじゃ…。

……あ!

違和感に気付いたか?

奥の細道は旅の行程を記したものでもある。

旅と言えば各地の名所めぐりや旅籠(はたご・今で言うメシ付き旅館)などにも泊まるだろう。

当たり前に考えてその時は移動していないということだ。

ちょっと計算してみてくれ、もし1日40キロを欠かさず歩いたとしたら5ヶ月も掛からないはずだぞ。

えっと、総距離2400キロ÷1日40キロって計算だよね。

ってことは60日!

大体2ヶ月で旅終わっちゃうんだ。

そんな簡単なことに気付かなかったよ…。

旅行だからずっとぶっ通しで歩き詰めるワケないんだよな。

そういうことだ。

もっとも1日一気に数十キロを歩くことはしていたようだぞ。

旅の遅れを取り戻すためかも知れんな。

それに船や馬に乗っての移動もあったから、実際の歩行距離は2400キロより短いのだと考える。

もっとも私なら六百里の距離だったら走り通しでもっと速く着けるがな。

昔の人の脚力のスゴさはともかく、それをたいしたこと無さそうに言うキミは化け物かい!

化け物扱いは心外だが…。

脚力については芭蕉や昔の人間が優れているのではなく、それだけ現代人が歩かなくなっただけのこと。

自動車や電車などの交通手段が発達した影響で、歩く習慣も薄れていったのだろう。

まあ皆がとは言わん。

何なら歩くことを日常としている者も居るし、走ることを生業(スポーツ選手)にしている者も居るワケだからな。

少し納得いったよ!

じゃあ新しい発見でもないかぎり、芭蕉は並外れた身体能力の持ち主とかでもなかったってことで!

そういうことだ。

が、言っておきたいのは身体能力が優れた人間ばかりが忍びというワケじゃないんだ。

たとえば薬を煎じたり道具を作ったりするのが専門の者だって居るし、あるいは変装をして各地の情報を探る者なども居るだろう。

そういう意味では芭蕉も忍びのお役目に関する何かにたずさわっていたという見方が出てくるのは理解できるが、それも想像の域だろうな。

了解、ありがと!

それにしても1日40キロ歩くのはフツーのことだったなんて…。

当時の普通ということは「旅を問題なく行える健脚」であったとは言えるだろう。

それとこの説の付け足しだが、芭蕉の父君は松尾与左衛門 (まつおよざえもん)という人物だったという。

そしてこの人物は柘植(つげ)の里の出だったという。

あれれ、そういう話もあるの?

そういえば時代劇の水戸黄門で柘植の飛猿(つげのとびざる)って忍者が出てくるよね。

その柘植ってこと?

そうだ、飛猿については架空の人間だろうが、柘植氏というのは伊賀の北部に実在した武家の一族だ。

が、その柘植ゆかりの与左衛門も忍びなどではなく、農民でありながら帯刀と苗字を名乗ることを許された無足人(むそくにん)だったという。

かつては忍びらしきものと関わりを持っていたのかもしれんが、すでに与左衛門の代では武士の権限を少しばかり与えられた農民といって差し支えなかったワケだな。

そして先ほどの母君の話にも振り返るが、忍びの百地と桃地が元は同じであったとしても、時代は戦国が終わって久しい太平の江戸だ。

芭蕉の代ではもはや忍びの活動そのものが薄れていた可能性もあるぞ。

帯刀って刀を持つのを正式に許されてるってことで、それに苗字も武士じゃない一般の人は名乗れなかったんだよね。

けっこう特別な家柄に思えるんだけど。

でも結局は戦が無い時代になって忍者っていう存在自体も必要なくなってたってことかな。

じゃあ芭蕉に忍びの活動ってやつが受け継がれることもなさそうだね…。

ちなみに与左衛門を父としたが、一方で儀左衛門(ぎざえもん)という名前だったともいわれている。

これは調査しても不確かなことだったゆえ、ここではあくまで与左衛門の表記を芭蕉の父として扱わせてもらったぞ。

そこらへんややこしいけど、これまでの話からは芭蕉が忍者だったって話にはやっぱムリがあるのかな…。

めっちゃロマンのある話だと思ったんだけどなあ。

その気持ちは分からないでもない。

コチョン殿の肩を持つワケではないが、先ほどの柘植一族の中にはかつて鉄砲術を用いて戦にも参加した者も居ると伝えられている。

そういう特技を持っている者も忍びと呼ばれていたのだとすると、まったく無関係だというのも面白味がないかもな。

芭蕉の父君が柘植の里の出で、柘植一族とどれほど関わりが深かったのかは果たしてだが、これまでの話からも分かるとおり芭蕉の生まれがあまりにソレっぽいからな。

なんとなくすっきりしたよ!

芭蕉さんが忍者に関係してそうな話が多いだけで、実はフツーの人に思えてきたな(フツーって言ったら偉人に失礼かも知れないけど)。

弟子も…

こういう話もあるのをコチョン殿は知っているか?

それは奥の細道を一緒に旅したという河合曾良(かわいそら)という芭蕉の弟子の方が忍びだったという説だ。

えーっと…ダレ?

芭蕉が有名過ぎて他の人なんて全然知らなかったよ。

っていうか弟子居たんだ…。

有名な俳人なのだから弟子くらい居るだろう。

特に有名な10人は蕉門十哲(しょうもんじってつ)と呼ばれているな。

さて、その蕉門十哲の1人でもあったのが河合曾良だ。

曾良は信濃(長野県)の出であり伊勢の長島藩に仕えていた者とされている。

しかしその後は武士を辞め、和歌や神道を学んだあと江戸で芭蕉の弟子になったらしい。

しかも奥の細道の旅路に芭蕉が付き人としてわざわざ連れて行ったのだから、それなりに信頼もおける人物だったのではないだろうか。

道中での補助的な役目を色々と行っていたようだぞ。

旅行の相方+添乗員みたいな存在だったのかな?

武士を辞めたなんてもったいない気がするんだけど。

それになんでその人が芭蕉より忍者っぽいって言われてるの?

こちらも曾良が幕府より各地を巡回する命を受けた話などから発生した俗説だな。

この各地を巡る役目も実際には忍びがたずさわるような密命というほどではなく、公開された大っぴらなものだったらしい。

ほかにも当時芭蕉と旅をしながら裏で各地の藩(はん)の視察や動きまで探っていた話まであるが、こちらも根拠らしいものが無いからうたがわしいものだ。

ちなみに奥の細道と、曾良が記した「曾良旅日記(そらたびにっき)」とでは内容の食いちがいが見られたり、奥の細道自体も芭蕉による脚色(多少盛って書くことだな)もあったりすることも説に味付けしているだろうな。

しかしこれらの話だけで曾良が忍びだったという説とを結びつけることは、少しこじつけに近いと私は思う。

芭蕉とちがって伊賀とか百地とか忍者っぽいキーワードもないから、その説はなんか味気ないね。

ところで曾良って人の話ってそれだけ?

芭蕉さんよりもエピソードが少ないね?

本来は曾良についての話も語り切れないほどあるんだが、この説からは脱線しそうなのでな。

そろそろ終わりにしようと思うが、しばし私の個人的感想に付き合ってもらいたい。

そもそも忍びという者に肝心なのは影の存在としてお役目に努めなくてはならないということだ。

かと言って、大っぴらに名が知れた忍びをおとしめるワケではないし、生まれた地や血縁から芭蕉のような説が立つことも否定はすまい。

が、歴史上明かされないだけで本来は無数の忍びが暗躍していた可能性があることも付け加えさせてもらうぞ。

私がそうなのだからな、フフン。

(しつこいけどキミが堂々と忍びって名乗ってるのにいい加減ツッコんで良いのかな…)

なるほどね! 現代で言うとスパイとか必殺仕事人みたいな感じなのかな?

正体がバレることのない影の存在か…そう考えるとなんかカッコ良いね。

でもさ、前にキミ巫女さんバイトしてたよね?

あれも忍びの仕事?

今はお役目だけでは食べていけないのだ…。

大変なんだね…。

うむ、理解してもらえただろうか?

……。

(…コチョン殿ではないがこの説には確かに疑問が残るな)

(奥の細道での芭蕉は日本三景の松島に訪れるのを大変楽しみにしていたらしいが、曾良の旅日記によると松島には5月9日、そのたった1日しか滞在していなかったという)

(奥の細道の中でも松島へ訪れた際には興奮して夜も眠れないほどと評していたのだから、もう2・3日ほど居ても良さそうなものだが…気が変わったのか? ひょっとすると近くの伊達藩の内情を調べた後、足が付かんように即刻旅立ったのか…)

(だとするとやはり芭蕉は忍びとして各地の内情を探る密命を帯びていたのか? が、これも推察の域を出そうにないから、あえてコチョン殿に言わずにおくとしよう…)

まとめ

・俳人・松尾芭蕉は忍者という説について、本人が忍者の里としても有名な伊賀出身であること、母親が伊賀忍百地一族の出身という話、奥の細道の行程2400キロを5ヶ月の期間で歩き切るなど事柄より発生したと思われる俗説

・出身地だけでは単純に説得力がない、母親は百地ではなく桃地という性の出身(桃地は伊予に移住したかつての百地一族とも言い伝えられているが詳細は探せず)さらに芭蕉の脚力も当時の旅人の平均的脚力程度という情報が、忍者説を怪しいと思わせる理由

・芭蕉の弟子・河合曾良(かわいそら)のほうが忍者という説もあり、これは曾良が幕府から日本各地を視察する命を受けていたためとされている(しかしこちらも俗説)

芭蕉がそうではないにしろ、血縁に忍びの一族と思わせる者が居たり、伊賀という地で生まれ育ったという条件がそろっていたりもしているから「忍びの知識」は持っていたかも知れないな。

色々思わせぶりな話も多かったし、読者どのをかえって戸惑わせてしまったかな…。

申し訳ない。

だからこそだが「芭蕉やその弟子の曾良を忍びと断定はできない」というのが私なりの答えだ。

そういやカエデ、奥の細道での距離は自分ならもっと速く歩けるって言ってなかった?

あのーいったい何日で行けるんスか?

数日あれば充分だな。

…あんだって??

なんなら、これから検証してみるか?

い、行かんでいい!

あ!

行っちゃった…。

…3日後。

ただいま戻った。

あ、帰ってきた…!!

って言うか、えーーーっ!!?? まだ3日しか経ってないんだけど!?

…ウソでしょ、ウソだよねえ? そんなアホみたいな速さで2400キロ走ってきたの?

うむ、ずっと全力で駆けてきたからな。

いやいや、全力でってアンタ…。

何気に服とかボロボロだね。

とりあえずお風呂でも入って着替えてきなよ。

…30分後。

……ふう。

久しぶりに長い距離を駆けたから良い運動になったぞ。

はい、お風呂上がりの牛乳!

やっぱコレに限るよね…ってちがうちがう!

長い距離って、ホントに昔芭蕉さんが通った道を走ってきたの?

一応芭蕉にならって地図を確認した後はひたすらな。

昔と現在では地名がちがうから、それと照らし合わせる方が難しかったぞ。

雰囲気だけでも出すために、あえて山道や獣道を選んで駆けたから実際よりも時間や距離は掛かったかも知れん。

そういう問題?

流石のくノ一と言いたいトコだけど、もう人の次元じゃないね…。

了。

主な参考先

萩原蘿月 著『詩人芭蕉』,紅玉堂書店,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2023-03-31.主に第二節・芭蕉の父および芭蕉の母の項を参照)

『文藝論叢』(17),文教大学女子短期大学部現代文化学科,1981-03. 国立国会図書館デジタルコレクション.下村智恵子.98-99p.※参考原本.村松友次.芭蕉の伝記と作品の研究 (参照 2023-04-01)

国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所 旅についてQ1(参照2023-04-01)

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