時代劇でのカゴ屋を指す?「雲助」とは

「次の宿場まで歩きでは少し遠いから、街道筋の雲助にでも運んでもらおう」

このセリフは雲助という言葉を使った例文として筆者が勝手に考えたものである。

ちなみに雲助とはおもに時代劇や落語などで見聞きする言葉で、一般的には大昔の日本での駕籠屋(かごや)または駕籠かきを意味する。

さて一見雲助とは、駕籠かきという職業そのものを表した呼び名のようではあるが、なぜそんな呼び名が存在するのか。

実は単に駕籠かきを指すだけではなく、悪い意味合いも少なからず含む言葉でもあった。

街道の労働者

一説では、決まった家を持たずそこらを雲の様にフラフラとあてもなくさまよう人足のこと。

また江戸時代に街道筋で交通労働を行う住所不定の労働者としての意味もある。

ちなみに人足とは普請(工事)や重量物の運搬などの力仕事に携わる人を指す。

そして雲助という言葉は道中人足と呼ばれ、江戸時代に街道で働く労働者としての意味で使われることがある。

この道中人足の仕事は先の駕籠かき以外にも、荷物を運んだり川を渡したりなどの仕事も含むとされていた。

なにも駕籠屋・駕籠かきのみを指す言葉ではないということだ。

不良駕籠屋

宿場からはずれたような街道で客を待ち、無理やり乗せたあげくボッタクリ料金を取る。

そういう駕籠屋の風上にも置けないヤツを侮蔑の意味を込めて雲助と呼ぶこともある。

本職の駕籠屋の蔑称として用いられるパターンだ。

なおこの場合、蜘蛛助(クモスケ)と表記されることも。

先ほどの悪い意味合いも含むというのは今の話から由来する。

だが時代劇を見る人にとってはこちらの意味の方が知られているだろう。

雲助か蜘蛛助か、どちらが最初に生まれた言葉なのかは不明だが、こちらは客を街道筋で待つ様子を、蜘蛛が糸を張り巡らせている様子に見立てて生まれた言葉なのだとか。

もっともそういった雲助はまだマシなもので、もっとヤバいヤツはダイレクトにお金を奪ったり、人を襲ったりする。

不埒な。

というよりも、辻強盗と呼ばれた方が合っているワケでもはや駕籠屋ですらない。

しかし時代劇で見るパターンのはこうした辻強盗染みた雲助が多い気がする。

たとえば人気時代劇の水戸黄門でこういう雲助の2人組を見た時は、旅人の女性に対し乱暴を働こうとしていた。

そして直後に黄門様ご一行にきっちりこらしめられるのが定番といっても良い。

本当にダメなタイプの雲助だが悪いことはするもんじゃないってこった。

派生タイプの言葉もなかなか悪い

雲助根性という言葉がある。

これは人の弱みに付け込んだり、足元を見てお金をまきあげたりする考え方を指す。

まさしく先の雲助のごとく。

こういう輩は現実にも居るだろうし控えめに言っても最悪な心の持ち主だ。

現実にも居るとしたが、現代での悪党はもっとずる賢いかも知れない(詐欺などで言葉巧みに悪事を行うイメージが強い)。

ちょっと脱線

ここでは雲助という言葉について少し逸れるが、箸休めということで。

映画・男はつらいよの2作目にて名俳優・東野英治郎さんが演じる散歩先生(主人公・寅次郎こと寅さんの学生時代の恩師)のセリフで印象に残るものがある。

散歩先生「俺が我慢ならんことは、お前なんかより少しばかり頭がよいばかりに、お前なんかの何倍もの悪いことをしている奴がウジャウジャいることだ。こいつは許せん、実に許せん馬鹿どもだ、寅」


寅次郎「私より馬鹿がおりますか」

映画 続・男はつらいよ 散歩先生と寅次郎の会話シーンより

散歩先生のセリフがストレートでとても同調出来るが、個人的には自嘲めいていつつ、世の中にはそういう悪党が居ることに呆れている様子の寅さんのセリフもどこか胸に残る。

散歩先生が語っているように自覚のない雲助根性(自覚がない分タチが悪い)を持った悪い人間は絶えないということをセリフを通じて考えさせられた。

なおシーン上でのこの2人のやり取りは、男はつらいよシリーズ内での名シーンの1つとしても知られているとかいないとか。

余談だが散歩先生こと東野英治郎さんは地上波時代劇での初代・水戸黄門を長く演じられた方でもある。

先ほど黄門様の話に少しふれたからではないが、奇しくもそういう繋がりがあったということで。

この男はつらいよでは悪の存在を嘆くことしか出来なかったが、時代劇での黄門様の姿では世の雲助根性の持ち主をきっちりとこらしめてくれていたのだ。

フィクション作品上の話であろうと実に痛快である(水戸黄門に限らず娯楽としての時代劇では、悪役がかならず罰せられる予定調和の世界観なので当然ではあるのだが)。

「足元を見る」の由来

閑話休題(かんわきゅうだい・それはさておきという意味)。

雲助とは一見関係なさそうだが実は大ありで、かつ目からウロコな話だったのが足元を見るという言葉。

旅人の草履がすり切れて歩けない様子を見た雲助が、それこそ客の「足元を見て」法外なお金を要求する話から来た言葉だとか。

あくまで説だがとってつけにしても良く出来た由来である。

たとえば「下手に出ているのを良いことに足元を見てくる」などという表現も悪い人間に対して使われるのがふさわしいだろう。

実際に人様の足元を見る人間も現実には少なくなさそうではある。

締めの余談

ふたたび余談だが古典落語に蜘蛛駕籠(くもかご)という演目がある。

おおざっぱな内容は、うだつの上がらない駕籠屋が声掛けした客たちがまた一筋縄ではいかない者ばかりで、駕籠屋とそれら客との滑稽(こっけい)なやり取りがメインの噺である(江戸落語と上方落語で客の種類や行動がちがうとか)。

そしてこの蜘蛛駕籠に出てくる雲助は、客を必死にとろうとする多少のグイグイ感はあるものの、一生懸命でどこか憎めない。

そもそも雲助には単なる街道の労働者としての意味もあるとしたが、この噺の雲助もその労働者の域からはみでない比較的まともな存在なのだ。

時代劇などでは素行の悪さも手伝って、駕籠屋には悪いイメージが自然と付きまとっているのに過ぎないと思われるが、そういう存在は一部の例外として考えるべきだろう。

カエデは駕籠屋さんを利用したことあるの?

あるぞ。

お役目柄、町娘に変装することもあってな。

あくまで一般人に成りすますため街道を利用した時だな。

忍者だからてっきり走りどおしだと思っていたよ。

…襲われなかった? それとも良心的な雲助ってやつだったのかな。

良心的ではあったが、あまりに遅いので途中駕籠から飛び降りて自分で走った。

やはり自らの足が頼りだな。

代金は駕籠の中に置いていったし問題無かろう。

そうですか、最初から乗る必要なかったんだね…。

(猛スピードで走り去る町娘を見て、駕籠屋さんは一体どう思ったんだろうか)

了。

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