読み込み中の一言
コチョン「たまにはお茶でも飲んで一息つこうね」
カエデ「思考を整える時間を大切にな」

信長からマジ説教を喰らった不運な武将?佐久間信盛と折檻状

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カエデ。

上司に手紙でガチ説教されたことってある?

へぁ? 手紙で?

私にとっての上司が、忍びとして育ててくれたお人ということなら、特に思い当たらないが……

だいたい説教されるにしても直接口頭でだな。

まー、どっちにしても、キミってあんまり人に怒られるようなタイプじゃないか(一応、優等生なくノ一っぽいし)。

それはそうとSNS時代の昨今、※li〇eとかで説教メッセージが届くようにもなったワケよ。

気軽なやり取りが出来るようになった影響で、365日24時間関係ないメッセージの送受信がちょっとした問題になっちゃったり。

説教じゃないにしろ、業務連絡や相談とか全部ひっくるめてね。

※このコチョンの話題に関して、SNSどころか携帯電話とメールシステムが普及した頃からすでにはじまっていたであろうことなので今さら感はある。

便利になった一方でわずらわしさがともなうことも増えたのだな。

これも時代というやつか。

ボクもどうかと思うんだけどね。ま、ボクたちがああだこうだいっても仕方ないことだけど……。

それはそうと戦国時代に長文の手紙で、上司からめっちゃキレられた武将が居るみたいなんだよ。

その上司って誰でも知ってる超有名な戦国大名なんだけど、その人に怒られた武将が誰かまではカエデ知ってるかな?

佐久間信盛(さくまのぶもり)のことか?

手紙とは世にいう折檻状というやつで、上司とは織田信長公のことだろう?

折檻状も信長公自身がしたためた書状とされているな。

さすが話が早いや。

そう、手紙ってあの信長さんからなんだよねー。

怖いよね、すっげー短気な性格って聞いたことあるし。

信長公の人格については、確かにさまざまな見方が伝わっているな。

だが短気とされる人物評も、あくまで1つのとらえ方に過ぎないと思うぞ。

実際会って会話したこととかないしね(めっちゃ穏やかさんとかだったら、逆に怖いけど)。

ちなみにその手紙の内容までキミは知ってるの?

おおまかにはな。

もっとも今の時代であれば、それが書かれている伝本を見ることも可能だぞ。

折檻状ってことは、やっぱりキレられてるってことだもんね……。

一体どんなんだろ。

信盛って人はなにやらかしたんだか……。

ブルブル……(ジョワー)

(……アレ? 漏らした?)

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長ーいお説教の手紙をもらった人

出典:芳虎 画『繪本太閤記』三編,松延堂伊勢屋庄之助,[1871]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/10303872 一部トリミング
佐久間信盛の概略

佐久間信盛は、1528(大永8・享禄元)年、尾張(愛知県西部)に生まれ、織田信秀(信長の父)・織田信長の親子二代に渡り仕えた戦国武将。

信長が関わった多くの戦に参戦し、10年ものあいだ続くことになる石山本願寺との戦いでは、およそ5年間、天王寺砦の総大将を任された。

後に信長から叱責の書状を送られ、高野山へと追放される。

信長から許しを得られることがないまま、1581~82(天正9~10)年、53・4歳で病没したと伝わっている(崖から足をすべらせ、転落死したという説も存在するが、はっきりとした死因は今も不明)。

この佐久間信盛へと届いた叱責の書状、つまり折檻状は1580(天正8)年8月に信長から送られた、彼とその息子の功績や態度に対しての長ーいお説教が書かれた手紙のこと。

19にもおよぶ箇条書きで散々に記されたその末文では、手柄を立てるか、武士らしく戦で死ぬかの選択を信盛らに迫って締めくくられている(それが出来なければ、頭を丸めて出家しろとも記されているので、信長の誇張でなければ三択)。

ざっくりいうなら。

「おめーら、このまま手柄もなにもなけりゃ、もう頭ツルツルにするか〇ぬかだな」と結びに至るまで容赦のない、信長からのそれはアツいアツいメッセージをもらったということである。

読んだ当時の信盛たちの心中ははたして。

もし筆者が彼らであれば主君の提案どおり、頭をつるつるにして大人しく出家する方を選ぶかもしれない。

しかし時代劇やドラマといった創作で見られるように、信長公が激しい気性の持ち主だった可能性で考えると、たとえ出家しても公の気分が変わり、後からこ〇しに来るんじゃないかという恐ろしさを感じる。

たとえ出家したとしても「震えて眠れ」圧がハンパではない。

書かれている本

今では、信長公にまつわる記録が書かれた信長公記という本から、その内容を知ることが出来るぞ。

次の画像右側の覺(おぼえ)の字から見てほしいが、一の字ごとに箇条書きされた文が折檻状の内容となっていて、それが延々と2ページに渡って記されているんだ。

出典:太田牛一 著『信長公記』巻之下,甫喜山景雄,明14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/781194 一部トリミング
出典:太田牛一 著『信長公記』巻之下,甫喜山景雄,明14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/781194 一部トリミング

読めん!昔のやつじゃん!

難しい文字とか漢字も多いし、なんかお経みたい。

いやがらせなの?

そういうつもりじゃないんだが、折檻状の箇所のみでも見た方が、話に入りやすいと思ってな。

たとえ読めずとも、こうした本が残っているという事実があるだけで、信憑性は増すものだし。

もう少し後で、文を訳したものをちゃんと用意してあるから、少し待つように。

そんなら良いけど……。

あんまり小難しいのは勘弁ね。

昔の書物とはいえ、割と新しい時代に刊行された本ゆえに字も整えられているし、まだ読みやすい方なんだぞ。

そもそも信長公記とは、信長公の家臣・太田牛一(おおたぎゅういち)により執筆された、信長公の生涯をつづった一代記だ。

本の名くらいは聞いたことがあるだろう?

それくらいならね……じゃあ信長が生きてるあいだになにしたかとか、どうなったかが書かれた本ってことだよね?

カンタンにいうならそういうことだ。

ちなみに先ほどの画像は、その※写本の写本の一部を抜き出したもので、明治時代に甫喜山景雄(ほきやまかげお)という記者により刊行されたものだ。

別名で我自刊我本(がじかんがぼん)ともいうが、そこから折檻状の箇所のみを使わせてもらったというワケだな。

※本の系譜は建勲神社本(牛一による自筆本、重要文化財)→町田本(良質写本の1つ)→我自刊我本(町田本の写本)となっているようで、今回画像を使用させていただいた我自刊我本は、写本の中でも当時の民間で広く読まれたもののようである。

ややこしいけど、写本の写本ってことは、その牛一……つまり本人が書いたもののコピーのそのまたコピーってことだよね?

そういうのって、たとえ元の本を写し取ったとしても、ちょっとづつ内容がちがってたりしないもんかな。

ホンモノは読めないの?

残念だが、今のところ信長公直筆のものを私たちが気軽に読める手段はない。

というより、残っているのかさえ分からないから、情報だけでもほしいところだな。

しかしこの我自刊我本は、私たちでも自由に見られるもの(出典を記載するなどに配慮すれば利用することも)ゆえ、ここで載せることも出来たワケだからな。

コチョンどののいうとおり原典に勝るものはなく、確実性の保証はできないだろうが「おおむねこういうもの」といった大筋はうかがえるから、充分ありがたいことなんだぞ。

なるほど、コピー本であっても使わない手はないってことか(なによりタダだしね)。

とはいえ、造本に携わった人を尊重する気持ちは忘れてはならないだろう。

それはそうとして……。

信長公ではないにしろ、牛一の自筆本で我々でも読めるものは今も存在しているし、当然折檻状の内容もちゃんと記されているぞ。

そちらは世にいう池田本と呼ばれているものだな。

そういうのもあるんじゃん。

あるにはある。

だがすでに我自刊我本の方を取り上げたから、その本についての話は後々な。

たとえ本人の手紙ではなくとも、近しい者が書いた。

それも希少な直筆本なのだから、これを拠り所としない手はないんだが……(それが安易に出来ないのは、私や筆者どのの識字不足のせいでもあるんだが、この段階でその話をするのは伏せておくか)

それぞれの意味は?

ここからは折檻状の条文一つ一つを抜き出し、訳を付けている。

ただ19条もあるから見出しも3つに分けたが、それでも長尺になってしまったので気長に付き合ってもらいたい。

それと訳については筆者どのの私訳ゆえにまちがいもあるだろう。

助け船になってはいないだろうが、まがりなりにも内容が伝わるよう心がけて行ったようだぞ。

私はそこに一言(コメント)を加えていく役だな。

私訳っていうか超意訳ってヤツだね

文を写して入力するために、PCのIMEパッドで探した漢字も多いんだよね(今だと筆者なんかが訳さなくても、現代語訳の本から引用させてもらえば良いのに……なんかの意地?)

ホントに長丁場になりそうだから、スマホいじりながら聞いても良い?

構わんが、そもそもあんまり聞く気ないだろう?

(元々はコチョンどのがふってきた話から始まったのだがな)

前置きが長くなったが、とりあえず始めようか。

1~6条

1.父子五ヶ年在城之内に善惡之働無之段世間之不審無余儀我々も思あたり言葉にも難述事

訳→お主ら親子は5年ものあいだ天王寺の砦に居ながら手柄一つあげていない。世間もそれを疑うことはもっともで、こちらにも思うところがあり言葉にもできん。

佐久間信盛と子息・信栄(正勝)には石山本願寺との戦のおり、信長公に砦の作戦指揮を任された時期が5年ほどあった。

その期間、何の進展もなかったことに信長公は呆れているんだな。

しょっぱなからボロクソだし、フォローをする気もサラサラないみたいだね。

ちなみに石山本願寺とは、元々浄土真宗の開祖・親鸞和尚(しんらんおしょう)の末裔が大阪に建立した寺をいうが、そこを本拠地とした教団そのものを指すこともある。

その布教は民に広く受け入れられ、多くの僧兵や信者を抱える大教団まで成長したが、やがて仏教勢力を嫌う信長公と敵対することになった。

この本願寺勢と織田勢との戦いを石山合戦(または石山戦争)と呼び、およそ11年にも渡って続いたんだ。

信長公の生涯中、類を見ない長丁場の戦としても比較的有名なんだぞ。

2.此心持之推量大阪大敵と存武篇にも不講調儀調略道にも不立入ただ居城之取手を丈夫にかまへ幾年も送候へは彼 相手長袖之事候間行く行くは 信長以光可退候條去て加遠慮候歟但武者道之儀可爲各別か様之折節勝まけを令分別逐一戦者 信長ため且父子ため 諸卒苦労をも遁之誠可爲本意に一篇存詰事分別もなく未練無疑事

訳→本願寺を強敵と考えたのか、お主らは武力行使もせず、知略をめぐらせることもせず、ただ砦の守りを固めただけで何年も経たせたが、この信長の威光のみで敵が勝手に降参するとでも思ったのか? それは武の道にあらず。勝敗を見定め戦ってこそ、この信長もお主ら親子も本懐であったはず。判断力を欠き、一方的な考えにおちいったのは未練たらしいことうたがいもない

信長公には信盛親子が砦の守りを固めただけで、何の行動も起こさずにいること。

あまつさえ「自分の威を借りて戦を終わらせようとしているのでは」という皮肉すらこめて、非難している。

また信長公が「自分の威~」という表現を使っていることから、すでに自身の権威や勢力が多大になったことも、この頃には自覚しているのだろう。

蛇足

折檻状が書かれた1580(天正8)年頃の信長の勢力は、京都・奈良・大阪を中心に、琵琶湖周辺の近江一帯や越後を除く北陸、さらに四国の一部(淡路島や讃岐)にまで及び、日本の中央地域のほとんどを支配する強大なものとなっていた。

しかし当初、本願寺との争いが始まった1570年頃は、同勢はおろか、他の大名(六角氏・三好三人衆など)までが加わった信長包囲網が形成され、信長にとって厳しい時期だった。

また同時期には、包囲網の敵勢力をけん制した上で、浅井・朝倉連合軍との交戦もあり、本願寺勢相手に「威」一つでどうこう出来るほどの余裕が、この時期の信長にはなかったことは容易に推察できる。

もっとも1571年の延暦寺焼き討ちを皮切りに、74年の長島一向一揆、75年の越前一向一揆を、信長が「苛烈」に制圧しはじめた頃であれば「超パンチの利いたイケイケ大名信長は恐ろしい大名」というイメージ=威光性が構築されてもおかしくない。

また、越前一揆制圧の前後に行われた長篠の戦いでは、甲斐および周辺国を治めていた巨大勢力・武田家の力を※大きく削いでいる。

※織田の勢いに加え、火縄銃や馬防柵を活用した戦略の成果も大きかったと思われるが、戦上手として知られた武田信玄がすでに没していたことも、敗北の一因と考えられる。

カエデ「ちょっと割り込むが、もし信玄公が存命だったとしても、火縄銃の編隊に騎馬隊のみで対抗するのはかなり難しかっただろう」

コチョン「戦術も時代に合わせて変わりつつあった、って感じだもんね」

カエデ「そう考えると、信玄公の死がなければ結果が変わったかまでは、ちょっと想像しにくいところだな」

ともあれ本願寺勢がこの時期の信長の力を恐れて、全面降伏も視野に入れ始める可能性は充分にある(結果そうなった)。

※参考資料

菊池正憲 『図解 戦国史 普及版』西東社 2010年 150-151頁 158~161頁 (参照日2025/05/25)

2段構えで責められた感じだねー。

3.丹波國日向守働天下之面目をほどこし候次羽柴藤吉郎數ヶ國無比類然面池田勝三郎小身といひ程なく花熊申付是又天下之覺を取以爰我心を發一廉之働可在之事

訳→光秀は目覚ましい働きをし、秀吉もほかと比べられぬほどの活躍を見せている。池田勝三郎にいたっては録は少ないもののわずかな期間で花熊城を攻め落とし、その功績を天下に知らしめた。これらに負けじと心を振るい、お主らも手柄を挙げるべきである

丹波國日向守とは明智光秀、羽柴藤吉郎は豊臣秀吉のことだ。

後に本能寺の変で謀反を起こす光秀も、光秀を討ち天下人となった秀吉公も、この頃は織田家で活躍する武将同士だったからな。

それと、もう1人の池田勝三郎とは織田家臣・池田恒興(いけだつねおき)のことで、禄高(現代でいう給料)が低くとも、摂津国の花熊という城を攻め落とした貢献ぶりをここで称賛されている。

この3名の目覚ましい活躍を引き合いに、信盛親子を奮起させようとしている風にも思えるな。

ほかの人と比べて叱られるって、リアルでもキツいヤツだ。

光秀とか秀吉なんて、信長さんの部下でもかなりのエースじゃん。

比べる相手が相手だし、少しかわいそうじゃない?

余談だが、恒興は幼少のころから信長公に仕えた古参家臣の1人だ。

ひょっとすると幼馴染のような間柄だったのかもしれないな。

4.柴田修理亮右働聞及一國を乍(ながら)存知天下之取沙汰迷惑に付て此春至賀州一國平均申付事

訳→勝家はこやつらの活躍を聞いて、すでに一国を持つ身でありながら奮起し、春に加賀を平定してみせた(それなのにお主らときたら)。

(最後のカッコ内のセリフは筆者どのがノリで書いたのだろうな)

柴田修理亮(しばたしゅりのすけ)とは織田家の重臣・柴田勝家で、修理亮は官位を示している。つまり勝家は朝廷から官職を授かっていたことも分かるな。

ここでは勝家が光秀たちの活躍を耳に奮起し、加賀の一向一揆を鎮圧したことを信長公は称賛し、この出来事を信盛たちに当てつけて書いているようだ。

うへー!また比べてる!

ボクならもう泣くよ!

当時の信長公は一向一揆の抵抗にも頭を悩ませていただろうから、この功績は相当大きいものだったはず。

特に加賀の一揆勢は強い団結力で、およそ100年ものあいだ守護にとって代わり、土地を実質的に支配していたくらいだからな。

しかも勝家はその加賀攻略の際、越後の謙信公をも相手取らなくてはならない厳しい状況にもかかわらず、後に一大勢力までふくれ上がった一揆勢を壊滅させたんだな。

謙信っていったら、あの信玄のライバルで戦の天才とか軍神とかいわれてたワケじゃん。

そんなやべー人とにらみ合うシチュエーションで、手柄を挙げたってのもすごいね……。

ちなみに加賀の一向一揆の平定は、1580(天正8)年11月の出来事とされている。

その頃に一揆指導者の首を信長公のもとへ送ったらしい。

もっとも謙信公が没した後に平定が成ったのだから、それまでは勝家にとってまさしく正念場だったんだ。

あのさ、ちょっと気付いたんだけど…。

折檻状は8月に送られているのに、実際に加賀を平定したのは11月。

しかしこの条文では春に平定したと書かれている。

おそらく時期がズレていることに疑問をもったな?

なんで分かったんだよ。

なぜなら私も違和感を感じたからだ。

だが、こうも考えられないか。

春に加賀を平定したと書いたのは、恐らく閏(うるう)3月に本願寺との和睦が成ったからではないかと。

和睦とは形式上の話で、実際は本願寺側の降伏だ。

この段階で各地の一揆衆は柱を失ったも同然ということだな。

蛇足

旧暦と新暦では一ヶ月ほどのズレがあるが、当時の3月は現在の3月下旬から5月上旬とされている。

つまり春といってもおかしくない時期なので、書状内での「春」表現も正しいと思われる。

へ?ぜんぜん分かんないよ。

だってまだ加賀を平定してないんだよね?

それ11月のことなんでしょ。

あれ?

もしかしてさ「相手はもうほとんど力残ってないだろ」ってことで書いちゃった信長さんの見切り発進的なやつ?

まあ、もう少し聞け。和睦の同時期に勝家たちが加賀一揆の拠点とされた尾山御坊(おやまごぼう)を攻め落としているんだ。

この影響で一揆衆の力も風前の灯びとなり、和睦と相まって平定したも同然というとらえ方にしたのでは、と。

だが残党の抵抗は少なからずあったとも考えるべきで、それらの対応を全て終わらせたのが11月と見るべきだと考えている。

もっともコチョンどのがいうように、11月に平定が「完全に」成ったと考えるなら、春という表現はいささか時期尚早な意味合いで書かれているな。

だがあまりに信盛がふがいないから、勝家の手柄を少々盛ってでも当てつけた……という見方も出来ると思うぞ。

そんなもんなのかな。

(文の作者がまちがって書いたわけじゃないよね?)

もっとも、これら条文。

ひいては今回の話すべてがたった一つの写本を元に、ほかの諸情報と照らし合わせて推察したことゆえ、浅い考察にすら満たないかもしれない。

本来はもっと多方面の資料とにらめっこして、答えを導き出す必要があるんだろうが……。

とりあえず今回はこれだけで良いんでない?

(そこまで手を広げちゃうと、もう軽く読める感じじゃなくなっちゃうし)

5.武篇道ふかひなきにおいては以属詫調略をも仕相たらはぬ所をは我等にきかせ相済之處五ヶ年一度も不申越之儀由斷曲事之事

訳→戦さ人としての働きに自信がないのなら、知恵をしぼり、その上で足りぬと思うところがあればワシに相談すれば良いものを、この5年ただの一度も報告すらなかったであろう

これはちょっと信盛たちも悪い様な気がするけど。

確かに魔王って呼ばれるような人に軽はずみな報告もしたくないけど、一生懸命考えてもダメだったら、相談くらいしても許されたんじゃって思うよ。

結局は現代でいうところの報告・連絡・相談(ほうれんそう)を怠ったことに怒っている様だな。

実はそういうのが全くないワケではなかったのが次の文で分かるが…。

6.やす田之儀先書注進彼一揆攻崩においては残小城共大略可致退散之由載紙面父子連判候然處一且届無之送遣事手前迷惑可遁之寄事於左右彼是存分申哉之事

訳→お主らの家臣・保田から届いた書状によれば、本願寺にこもる一揆衆を葬れば、ほかの砦の一揆衆も退散するだろうと書かれ、これにはお主ら親子も連判している。が、そのような相談は一度としてなく、書状にて突然知らせてくるのは、実に勝手でありうやむやに言い訳をしているようにしか思えぬ

保田という人物だが信盛親子に仕えた保田安政か、もしくは保田知宗という人物とされている。

軍略らしきものを記した書状を、この者に送らせたことに対しての指摘か。

よほど取りつくろっているように見えたのだな。

信長さんの気性なんてボクたちも知らないから、相談しづらいってのは分かるけど。

でもこれって保田って人が考えたにしても立派な提案じゃない?

何でダメなんだろう。

相談を持ちかけろと言ってみたり、かたや提案しても言い訳がましいととらえられたりするのだから、ちょっと矛盾は感じるが…。

「そんなこと言われなくとも分かる」という風に軍略のお粗末さ(かどうかは定かではないが)にも呆れていたかもしれないな。

あとさ、この部分の後半ってもうひらがなすらないよね(お経だよもう)。

筆者もここ打ち込むのにすごい目が疲れたみたい。

7~10条

7.信長家中にては進退各別に候歟三河にも與力尾張にも與力近江にも與力大和にも與力 河内に與力 和泉にも與力 根來寺衆申付候へは紀州にも與力少分之者共に候へとも七ヶ國之與力其上自分之人數相加於働者何たる遂一戦候共さのみ越度不可取之事

訳→お主らは我が家中において、格別の待遇を受けている。三河からも与力、尾張からも与力、近江からも与力、大和からも与力…河内…それと和泉からも…さらに紀伊からは根来衆まで付けている。それぞれからはそう多くはないが七ヶ国から与力を与えているだろう。これにお主ら直属の配下まで数に加えれば、いかな戦でもそうむやみに後れを取ることはないはずだが、な

信盛親子は織田家から破格の待遇を受け、およそ7か国から人手を与えられているのだから、そこに直属の家臣も加えればある意味手柄を挙げて当然…そういう感じの文だな。

まあ相手は信長公の生涯で最強の敵とも目された石山本願寺勢なのだから、そこを担当する武将に人手や物資を多く付与するというのはもっともなんだがな。

それにしても功績らしい功績をもたらさないことに、ここでも呆れているようだ。

与力の連呼が怖い…。

ねえ、このへん完全に怒りに任せて書いてない?

8.小河かり屋跡職申付候處従先々人數も可在之と思候處其廉もなく剰先方之者共をは多分追出然といへとも其跡目を求置候へは各同前事候に一人も不拘候時は藏納とりこみ金銀尓なし候事言語道断題目の事

訳→信元が治めていた刈谷を与えたから、配下の者も増えたと思ったが、信元の旧家臣を追放してその録を奪い取り、単に私腹を肥やしただけであるな。それらを自らの直轄としたことも言語道断である

信元とは水野信元という名の織田武将であり、家康公の叔父でもある。

かつては信長公と家康公との清州同盟を取り持ったほどの人物なのだが、一説では信盛の策略により謀反の罪を着せられ、ついには信長公に処罰されたと伝わっている。

その後、信元所領の刈谷の地は信盛に与えられたのだが、上手い運用も出来ず目下の者への非道なふるまいからかこれを叱責されているな。

信盛たちも悪いよね。

策略って人をおとしいれたってことでしょ。

人の領土をもらっておいて、元々居た人たちを雑にあつかったりして、要するに自分たちのことしか考えてなかったんだよね?

キレられて当然じゃない?

そこで先ほどの謀反の罪の話だ。

詳細は敵城と信元の領地のあいだで食料調達の密約らしきものがあると知った信盛による進言が発端らしいのだが。

それは建前で信元は尾張と三河の二国間に領地を持つ有力大名でもあったから、その影響力が織田・徳川両家から危ぶまれ、それで謀殺へと追い込まれた見方もあるんだ。

もっとも信長公が信元のことをどう考えていたかは一旦おいて、信盛親子への領地管理問題を追及していたことは確かだろうな。

9.山崎申付候尓 信長詞をもうけ候者共程なく追失之儀是も如最前小河かりやの取扱無紛事

訳→山崎においても同じこと。あまつさえこの信長が気にかけた者どもを勝手に追放した所業も先の刈谷の件と同じだ

信盛は尾張の山崎城まで与えられていたが、そこに居た家臣たちの中には信長公に直に期待をかけられていた者も居たようなのだ。

それらの者も追放した傍若無人なふるまいも、前文と同じような魂胆だろうと攻めたてているようだな。

追撃喰らったね。

今でいうと管理能力といったものが欠けていたり、自分の直參家臣でない者には冷たくしたりなど、人格に問題があるようにも見受けられてきたな。

もっともこれらが真実であればの話だが。

10.従先〻自分尓拘置候者共尓加增仕似相尓與力をも相付新季尓侍をも於拘者是程越度は有間敷候尓しはきたくはへ計を本とする尓よつて今度一天下之面目失候儀唐土高麗南蠻まても其隱有間敷之事

訳→以前からお主らに仕えている忠臣たちへ録を加増したり、与力を付けてやったり、またあらたに配下の者を取り立てるなど行えば良いものを、これもまた私腹を肥やすだけであったな。唐・高麗・南蛮などの国々へもその悪評が伝わるだろう。

もうよしたげてよ。

これでトドメみたいなもんじゃん。

ますます自分たちのことしか考えていない様子に、信長公も怒り心頭といったところか。

諸外国まで評判の悪さが伝わるとまで書いているのだからな。

ところで、もう半分くらいだよね。

折檻状。

だいたいの内容はこんな感じでってことで、ここいらでやめにしない?

残念ながらもう少しだけ続くんじゃよ。

ここまで来たのだからガマンするように。

「続くんじゃよ」って……

(亀〇人のごたる!)

11~19条

11.先年朝倉破軍之刻見合曲事と申處 迷惑と不存結句身ふいちやうを申剰座敷を立破事時尓あたつて 信長面目を失其口程もなく永〻此面に有之比興之働前代未聞事

訳→先だって朝倉を打ち滅ぼした際、戦の仕方についてお主に指摘したところ、口答えをし、場の雰囲気を台無しにしただろう。ワシに恥をかかせおって。その割に今の体たらくはあり得んことだ。

朝倉とは越前国を支配していた大名・朝倉義景のことだな。

その朝倉を滅ぼした後なので本来は戦勝を祝うべきなのだが。

この当時、信盛の戦ぶりを指摘した信長公だが、それに対して反抗されたを思い出し、ここぞとばかりに怒りをぶちまけているところだ。

仕えるお殿様に口ごたえなんてしたら、斬られてもおかしくないんじゃ。

しかも相手はおっかない信長さんだし。

これってその場では見逃されたってことだよね?

少々、おどろくべきことではあるのだがな。

いきなりのことゆえ、あぜんとしてしまったのか。

もっとも、裏切った家臣を許したり、説得したりという意外な面が信長公にはあるからな(だから見逃されたということにはなるまいが)

しかし年月が経った後でも、信長公の怒りは心底にくすぶっていたということだ。

かえって怖いよ!

ずーっと根に持ってたってことだよね……

朝倉が滅ぼされたのが1573(天正元)年8月18日に起こった一乗谷の戦いでのことで、折檻状が書かれたのが1580(天正8)年8月頃だ。

ともすればおよそ7・8年ものあいだ、腹の奥底に怒りをひそませていたということになるな。

信長公は。

それまで何も起きなかったのスゴイね。

ボクが信盛だったら勢いだったとしても、めっちゃ後悔するだろうし、いつ処罰されるのかガクブルもんだけど。

私の予想だが近習の配下には散々グチっていたかもしれないぞ(森蘭丸とか)

そういうのが分かる文献でも見られれば、信長公の怒りの程がより浮き彫りだったことがよりはっきりするんだがな。

12.甚九郎覺悟條〻書並候へは筆にも墨にも述かたき事

訳→息子・甚九郎(信栄)の罪を並べたてれば、キリがない。

あ、息子に矛先がいった。

子息の信栄に関しての直接の文はこれだけだが、ある意味で父親よりも呆れられているようだな。

13.大まはしにつもり候へは第一欲ふかく氣むさくよき人をも不拘其上油(断)之様に取沙汰候へは畢竟する所は父子とも武篇道たらはす候によつて如此事

訳→おおまかに言うならば欲深く、人間味もとぼしく、良き人材を配下にも迎えず。つまるところお主ら親子はそろいもそろって武篇道にもとることはもっともである

アレ? 武篇道ってさっきも見たんだけど。

これって今でいう武士道のこと?

まちがってるワケじゃないよね?

今さらだが武篇道(ぶへんどう)というのは、武士の心構えとか戦場にて武を振るうという意味もあるようだな。

信長公はこの武篇道を重んじ規範として掲げていたというぞ。

武士道とは本来の意味はちがっているかもしれないが、同じようにとらえてもおかしくはないだろう。

14.與力を専と(し)余人之取次にも搆候時は以是軍役を勤自分之侍不相拘領中を徒に成比興を搆候事

訳→取り次ぎや軍に関する一切を与力に任せっきりで、直属の家臣を使おうとはせず、領地すら有効に活用しておらぬ

信長公から与えられている兵ばかりを使って、自分の配下を使おうとしない。

オマケに領地の運用もはかばかしくないと責められているところだな。

こういう短い文だと訳もしやすくて良いんだろうね。

どっちにしても怒られてるけど。

15.右衛門與力被官等に至まて斟酌候に事たゝ別條にて無之 其身分別に自慢しうつくしけなるふりをして綿之中に(しまはり)をたてたる上をさくる様なる こはき扱付て如此事

訳→家臣・与力ともどもお主に対して遠慮している。自らを自慢し良い素振りでいるように思えて、その実、綿の中に針をかくし立てているかのような扱いを(それら家臣へと)している。結果、今の状況を作り上げているのだ。

信盛の性格が少しうかがえる文になっているな。

自尊心が高く、目下には冷たい人間のように思えるが、これは信長公が信盛とはそういう者ということを誰かから聞いたのか、それとも実際に目にしてそう言っているのか分からないところだ。

本来の気性はいかにだがな。

ぜんぜん関係ないけど。綿の中に針をっていう言い回し、なんか詩的だね。

この部分書いた後の信長さんって「フフン、良い表現だろう」って少し気持ちよくなってたりして。

16.信長代になり三十年 逐奉公之内に佐久間右衛門無比類働と申鳴し候儀一度も有之ましき事

訳→お主がワシに仕えて30年の内に、信盛が働きはほかと比べるものなしと聞いたことなど、ただの一度もない。

もしかするとこの箇所を書いた時の信長公は、ある種の無念さを感じながら書いたのではと思っている。

幼い頃から仕えている家臣が、比類ない働きをしてくれることを心から望んでいたのかもしれないな。

私個人としても少しばかりやりきれない気持ちになったところだ。

そう考えるとちょっとした寂しさも感じるところだよね。

「色々目をかけてやったのになんで活躍してくれないんだ!」ってね。

17.一世之内 不失勝利之處 先年遠江へ人數遣候刻 互勝負有つる無紛候然といふとも家康使をも有〻條をくれの上にも兄弟を討死させ又は可然内者打死させ候へは其身依時之仕合遁候かと人も不審を可立に一人も不殺剰平手を捨ころし世に有けなる面をむけ候儀以爰條々無分別之通不可有紛事

訳→ワシの生涯で負けというべき唯一の戦は、先の遠江に援軍を送った時のみで、勝ち負けの習いがあるのは仕方のないことである。その際に家康のことがあれど、お主の軍では兄弟やしかるべき身内の者が討ち死にしたとあれば、その身が助かろうと人々は不審に思わなかっただろう。だがお主の家中の者は誰一人死んではおらん。あまつさえ平手(汎秀)を見捨てて死なせ、平気な面をしていること。無文別にもほどがあろう。

遠江(とおとうみ)へ援軍として向かった信盛についての話だが、これは武田軍と織田徳川連合軍とが争った三方ヶ原の戦いの時のことだ。

武田軍(約25000~27000人)に対し、徳川と織田を足した軍勢(約11000人)の圧倒的な兵力差もあって、信盛は勝ち目薄しと思ったか、家康公の援軍としての役目を果たさず、まともに戦おうとはしなかったらしい。

えー、ずっこいな!!

ただ見てただけってことじゃん!

もちろん信盛勢に損害らしいものもなく、あまつさえ織田重臣の1人、平手汎秀をこの戦で失っても、残念がるそぶりすら見せなかったらしいのだ。

先の言い方を借りるなら武篇道にもとるふるまいといえる。

ところどころ人情味のなさが目立つなあ。

18.此上はいつかたの敵をたいらけ会稽を雪一度致歸參又は討死する物かの事

訳→この上はいずこかの敵を倒し、汚名をそそいでワシの元へ戻るか、それが出来なくば討ち死にせよ

これと次の文は一緒にしても良い風に思ったが…。

ちくいち分けているところを見るに、1つ1つの文として怒りを込めているといった信長公の感情が垣間見られるようだな。

19.父子かしらをこそけ高野の栖を遂以連〻赦免可然哉事

訳→父子ともども髪を剃って高野山に入り、連々と許しをこうが当然であろう

19条目、これが最後の条文だが、親子は出家して延々詫びを入れろとさらに突き放している。

ここも怖いよ!

頭ツルツルになっちゃうよ!

コチョンどのは関係あるまいに……。

(毛がまったく生えない種類のネコが居るのを急に思い出したぞ)

右數年之内一廉無働者未練子細今度於保田思當(あたる)候(様)申付天下 信長に口答申輩前代始候條以爰可致當末二ヶ條於無請者二度天下之赦免有之間敷者也 天正八年 八月日

訳→この数年のうちに手柄も挙げず、武士としてあるまじき未練、この度の保田の件でよく分かった。そして天下を治めんとするワシに対してお主のように口ごたえをする者なども居らん。当末二条の内いずれかを成し遂げよ。それが出来なくば天下(自分のこと?)はお主ら親子を二度と許すことはないであろう。

正確には条文ではないが、トドメのあとがき文だ。

長かったね……。

のどかわいちゃったよ、何か飲まして。

お疲れさま、冷茶で良いか?

ここまできてなんだが、6条と10条でふれていた件でのことをぶり返したように書いているな。

末筆においても怒りや呆れをひきずりつつ仕上げたのだろう。

すっごいね……。

手柄を挙げるか、出来なければ頭ツルツルにして出家するか、武士らしく〇んで来いの3つの内を選べってことか。

究極とはいうまいが最後通告だな。

その後親子がどうなったかは後々ふれることにしよう。

※ここまでの折檻状文は、我自刊我本を底本とし筆者が書き写したものです。その際、空白の変更や一部旧字は常用漢字に、二・ハなどのカタカナをひらがなに統一しており。くずし字など変換不可だった字も常用字へと変更しております(申・候など)。

長きに渡った本願寺との戦いの顛末だが、先にもいったとおり織田家と和睦を結んで(実質、本願寺の全面降伏)して終結を迎えるんだ。

これも1580(天正8)年のことで、事後に信盛親子へと折檻状が送られることになった。

同年に重なったということだな。

信長さんも「あー戦い終わった…せや!信盛に手紙で説教したろ!」って感じ?

(どこかで見たような言い回しだな)

余談だが、この折檻状の原文は信長公本人による直筆とされている。

そもそも自身で筆をあまりとらないという話もあるほどだからな。

代わりに文をしたためる専属の者たちが居たというぞ。

へ?

じゃあどーしても自分で書きたかった手紙なの?

それだけ「ぶちキレて」いたのだな。

真意は分からずとも、表向きは怒り・呆れ・さげすみ……負の感情の詰め合わせ文というワケだ。

ヒーッ!怖い!

怖いよ!

(ジョワー…)

(え?また漏らした?)

ほかの本の折檻状部分

より信頼性が高い資料の1つとして伝わる、太田牛一直筆の信長記での折檻状も確認してみたぞ!

残念ながら画像は諸事情により載せられないが、最初の文「父子~」から、文頭に書かれた一の字を数えたところ、きっちり19条あったことはかろうじて視認できた。

おおー!

じゃ19のキレ文はホントだったんだね!

なお確認に使用したのは岡山大学附属図書館の、古文書ギャラリーに収録されている池田家文庫・信長記だ。

これをWebで閲覧させてもらった(感謝だな)。

※そして巻第十三、見開きの空白ページを含め、100ページ目からはじまり、その後16ページに渡って書かれたものが折檻状の箇所となっている。

興味がある場合は申し訳ないが自身で確認を頼むぞ。

Web検索を日常的に行っている者なら、大元のサイトで容易に見つけられるはずだ。

※反対に巻末から見開きの白紙ページを含めて巻頭に向かってページを進めると、ちょうど25ページ目に折檻状の始文が書かれています。

なので閲覧するならカエデのように巻頭からページをめくるよりも、後ろからたどっていった方が早いです。

かろうじてってカエデにも読めなかったんだね!

私とて多少読み書きはするもののあまり得意な方ではなくてな。

部分的に判読して、おおよその内容を推察するしか出来なかったんだ。

だが3条目の「丹波國~」・6条目の「やす田~」などの記載は我自刊我本の部分とも共通であったし、ほかもほぼ同じ内容にちがいないと判断したのだが。

まあボクもチラ見したけど、俗にいうミミズがのたくった字だったね……

そういう失礼を言うな(アレを読める者も現実には居るのだし、ぜひ教えを請いたいものだが)

それに牛一は記憶力の良さを評されるほどで「嘘を書いたら神罰が降る」という覚悟の元、文を幾重も推敲し、修正もほどこして完成させたようなのだからな。

それにどんなくせ字であろうが、本人直筆と伝わるものが見られるだけでもありがたい話だと思うぞ。

まあそうだろうけど…。

再度いうが、本へのリンクは貼っていない。

だが調べればすぐ見つかるはずだし、読むまでにそれほど手間もかからないだろう。

むしろ牛一の筆跡を解読する方が大変だと思うが。

だろうね。

けど、貴重な一次資料ってやつなのはまちがいなさそうだね。

(何となくだけど読めない物を悪戦苦闘して解読するより、現代語訳の本から引用させてもらった方が効率的だったんじゃ……筆者とカエデの意地かな?)

本ごとに差異がある

江戸時代に完成した信長公記の写本で甫庵信長記(ほあんしんちょうき)という名の本もあってな。

我自刊我本での折檻状と比べると、文にも細かなちがいが見られるんだ。

たとえば最初。

太田牛一 輯録 ほか『信長記』巻13-14,元和8 [1622]. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2544604 (参照 2024-04-03) 巻13-14 コマ番号10 一部トリミング

これは甫庵信長記での1条目の文だが、二行目にある所領盗人の言葉は、さっきの我自刊我本の方には記されていない。

この文を私訳すると「お主ら親子は5年ものあいだ何の成果もあげていない、よって世間がお主らをただの領地(土地)泥棒とののしっても致し方ない」といったところだな。

おおむね内容こそ似ているが、ほかにも朝倉のおりでの信盛に関しての文では「信盛コトキノ臣下ハ…(お主ごときが)」と見られるあたり、独特の表現も少なくない。

もっとも言葉のちがいというだけなら、ほかにもあるがな。

本ごとに書く人がちがうんじゃ、表現も微妙にちがってくるだろうし、書き写されるほど、段々オリジナルとはなれてくってことだよね。

でもさ、こっちの本の方が古いんだよね?

だが、この甫庵信長記は創作性が強い本とされている。

作者の価値観にもとづき、脚色されたものといっても良いだろう。

今回は折檻状のところのみに着目したが、現在ではこの甫庵信長記に対して、資料的価値が低いという見方もあるんだ。

各条文の頭にふられた一の字が13までしかないところも、ほかの本とのちがいになるだろうか(要約したといえばそうなんだろうが)。

これはこれで別作品として読んだ方が良いってことかな?

そうだな、そういう風に割り切った方が良いかもしれない。

ほかにも3条目、甫庵信長記では丹波國日向守…明智光秀を称賛したことが記されていない。

少なくとも折檻状のどの箇所にも一切書かれていないな。

そうなの?

ああ、私の見落としでなければだが。

ここで推察だが、通説の解釈でいうところ光秀は信長公への謀反を起こした反逆者だ。

ゆえに「誉れ高い武将像」とはいえないため、あえてその箇所を削ったのではないかとな。

ごめん、ちょっと分からないや。

なんでわざわざそんなことするって思うの?

それは、この本の著者の小瀬甫庵が医者でもあり「儒学者」でもあったということに基づいて考えついたことだが。

そうした道徳を貴ぶ学問を修める気質の者であれば、主君を裏切った光秀を「たとえ原作者が書いていても」称賛することを嫌い、原文と異なる形にしたのではないかと……

が、これはもはや邪推だな。忘れてくれ。

なるほどね。

でもカエデの解釈も面白いって思ったよ。たとえ邪推でもさ。

そういう考えが思い浮かぶなら、こんな風に写本ごと見比べるのもアリだね!

(めんどいからボクはやんないけど)

(コチョンどのはぜったいにやらないだろうな)

もっとも研究者であれば、文献の比較検討くらいは当たり前に行うからな。

おかげで我々でも手が届く現代語訳の本が出版されたり、新解釈が発見されたりしているのだし。

浅学な我々が「それ」を行うには、趣味として行うにはいささか骨が折れるだろうな。

頭が下がる思いだ。

蛇足

写本を含め、信長の伝本は70以上存在するともいわれている。

中でも牛一による自筆本で現存するものは極めて少なく、信長公を祀っている京都の建勲神社に納められている建勲神社本、武将・池田輝政へ献上された池田本があり、国の重要文化財にも指定されている。

なお最初の方でも書いたが、ここの文で折檻状訳の底本にさせていただいた我自刊我本は、民間でも広く知られる写本であり、明治14年に発行された比較的新しいものである。

結果追放された

折檻状を受けてまもなく、信盛たち親子は高野山へと追放されたそうだ。

その際の様子が描かれた絵が石山軍記という本にも残されているぞ。

絵も諸事情から載せられないが、URLは↓へと記載しておいたから、各々で見てほしい。

※土屋正義 編 ほか『絵本石山軍記』第3篇 巻之1-5 ,前川善兵衛,明16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/877830/1/103

絵見たけど、ハンパないしょげっぷりだったわ。

めっちゃ哀愁ただよってるし。

ショボーンって。

だな。

この時期の信長公は周辺の敵勢力をのきなみ倒し、天下統一が現実味を帯びてくるほど力を持っていた。

そんな大大名となった相手からの処分が追放で済み、まだマシだったのかもしれないな。

石山本願寺と戦い終わった時期っていってたよね。

キリの良いところで部下の処遇にも目が向いた。

その目が信盛たちへ向いたのは必然だったのか。

今考えてみると折檻状は信盛たちに対する激励のようにも思えるんだ。

ここまで言わせたなら、流石に奮起して頑張ってくれるのではないかとな。

マジでそう思ってんの?

プラスマインドがぜんぶ持っていかれそうなんだけど。

追い込まれることで成果を出す気質の者も居るだろう?

残念ながら信盛親子はそういう者たちではなかったのかもしれないな。

そして追放後まもなく、信盛は熊野の地にて54(55とも)歳で亡くなったそうだ。

信長記上で死因は病没とされているが、これにもさまざまな説があってな。崖から転落死した事故説や、暗〇説までがあったとされる。

なんにしても、キレられて追放されたまま死んじゃったんだ…。

あれ?息子は?

息子の信栄は許されて、織田家へと帰参できたらしい。

理由は信長公からの哀れみとされている。

信長公が本能寺の変で亡くなった後は秀吉公に仕えたそうだ。

なんでも1632(寛永)年、つまり江戸初期まで存命だったらしく、76歳で世を去ったという話だ。

せめて信盛も生きている間に許されてたら良かったのに。

でも息子は戦国武将の中でも、けっこう長く生きられた方なんだね。

ちょっと脱線するが、一時は信長公に追放されたものの、後に帰参を許された武将の中には加賀百万石の礎を築いた前田利家も居るんだぞ。

利家は織田家中において槍の又左と称されるほどの猛将で、秀吉公の時代には五大老に抜擢されるまでとなった人物だが、若い頃、信長公が可愛がっていた茶坊主からコケにされ、激怒してその茶坊主を斬ったことで追放されるという経験をしているんだ。

後に無断で戦へ参加し、敵将の首を持ってきた功績を認められ、帰参を許されたというぞ。

逆境に強い武将だな。

無断でってあたり、ハートも強いよね(もししくじってたらヤバいと思うし)

活躍の話

なんか散々だったけど、そこまで救いようのない人なのかな? 信盛って。

光秀や秀吉公といったほかの重臣と比べられ、態度にまで言及された手紙の内容も現に残っているからな。

後世での評価も低く見られてしまうのは、ある意味で仕方ないのかもしれないが。

信長さんに口ごたえしたり、息子も周りから嫌われていたっぽいしね。

色んな要素が積もっちゃったんだね。

だが一方で、信長公が家督を継ぐ以前からも織田家が関わる多くの戦に参加し、少なからず手柄を挙げたとも伝わっているからな。

まったく役立たずの武将というワケでもないだろう。

それと信盛には退き佐久間の異名が付いていたのを知っているか?

退き佐久間?

退きって字入ってるけど、逃げることが上手いとか?

それならあんまカッコよくないなあ。

戦さは攻めがすべてではなく、負けが見込まれる場合にはその時の判断や処置によって残存する戦力にも大きなちがいが出る。

特に負け戦での退却時などは、殿(しんがり)の働きが大切だからな。

ちなみに殿とは、味方の被害を最小限に抑えるため、軍の最後尾で敵の追撃をさばく盾というべき存在なんだ。

重要な役割ってこと?

そういうことだ。

信盛はこの殿での指揮が得意だったらしく、それで退き佐久間の異名が付いたというぞ。

そう聞くと、何気にやり手に思えるね。

しかも殿が対応すべき敵は、戦勝の雰囲気に包まれて士気も高く、勢いづいている可能性がある。

その追撃を上手くいなすことが出来る者は果たして無能か……言うまでもないな?

ちょっと見方が変わって来たよ!

退き佐久間ってカッコいいね!

(もっとも、その確証となる戦が挙げられないというのもあるんだが……)

それと先の折檻状の中で天王寺砦の守りを固めたのみという話を、別な見方としてとらえると、信盛は大きな失敗をしていないことにならないか?

信長さんの采配ミスかと思ったけど?

それも1つの見方だが、本願寺への包囲網を固めつつ、ひたすら守りに徹していたのが幸いしてか、結果として壊滅的な損害は出なかったのだ。

つまり5年ものあいだ、強大な本願寺勢と一揆衆をけん制したうえで「双方にらみ合い」程度に留めたのは、ある意味で功績と呼べるのではないか?

下手に攻め込みいたずらに兵を消耗するくらいなら、持久戦に持ち込むのも1つの戦略ということだ。

でも信長さんからすると、もっと目に見えた成果が欲しかったんだよね。

敵の大将を討ち取るとかさ。

兵力にものをいわせた攻めや、調略による相手の弱体化を求めるなら確かに不足はあっただろう。

しかし信盛とて指揮を任される以前の天王寺の戦いでは、本願寺勢相手に第一陣の手勢として戦に加わっていたようだからな。

長きに渡った本願寺との戦いにおいて、まったく何もしなかったというワケでもない。

派手な実績があまりなかったってことかな。

ところでボクも本とかWebでちょびっと調べたけど、本願寺との戦いの時って色んな勢力がごちゃごちゃしてるってイメージだな。

きちんと整理して覚えるの大変そうだったよ。

策略家としても優秀だった?

一説では長篠の戦いのおり、自らが信長公を裏切って敵方の武田家に付くというニセの情報を流して、敵の油断を誘ったともされている。

敵方の総大将・武田勝頼公はそれを勝機とみなして進軍を開始するが、長篠の地で織田軍の鉄砲隊相手に大敗し、後にお家の滅亡まで追い込まれたということだ。

めっちゃ立役者じゃん!

一見ヒキョウだけど、敵をあざむくにはまず味方からっていうやつ?
 
そういう作戦を使って味方が勝つきっかけを作ったんだし、それだけでも手柄っていえるんじゃない?

(だが、これに関しては信盛がわざわざ策を講じなくとも、戦上手の信玄公を失っていた武田勢はすでに大きく弱体化していただろう)

(ならばどちらにしろ、織田の鉄砲隊には勝てなかったと思うが、無粋な話になってしまうだろうな……)

昔から信長推し

信長公がうつけと呼ばれ、若い頃は手の付けられない暴れん坊だったという話は有名だな?

信盛は周りの家臣たちがそんな信長公に引いていた頃から、すでに公を支持していたというぞ。

後に織田家の家督争いが起こり、信長公の弟の※織田信勝(おだのぶかつ)側に加担する家臣たちが居た時ですら、ひたすら忠義を貫いていたという話だ。

※またの名は信之(のぶゆき)。後継者争いで信長と対立し、稲生の戦い(1556(弘治2)年8月)で信長に敗れた後、信長・信勝両名の実母である土田御前(つちだごぜん)の仲立ちによって一度許されるが、およそ2年後、再度の謀反を企てていたことがバレて、信長に誅〇されたと伝わっている。

要は家督相続にまつわるゴタゴタで起きた、戦乱ならではの悲惨な出来事でもある。

ちなみに信長も実子であるにも関わらず、土田御前は弟の信勝ばかりを寵愛していたという説もある(事実だとするなら、この家督問題には信長からのジェラも関わっていたのかもしれないという憶測。『あいつばかり可愛がられやがって……』的な)。

それって信長さんを激推してたってことなんだよね?

すごいじゃん!(だとしたら、折檻状の内容と同じ人だなんて余計思えないけど)

織田家中でほかにも有名な重臣といえば、柴田勝家の名も挙げられると思うが、勝家自身も元は信勝を次の主君として推していたのだからな。

古くからブレずに仕えてくれた重臣だからこそ、信盛の後年の有様には期待を裏切られたと思ったのかもしれない。

結局、折檻状からの追放へと相成ったということか。

昔からの信長推しの人だっただけに、この顛末は色々残念だよね……

まとめ

①織田信長から直筆の折檻状(怒りの文書)を送られた佐久間信盛という武将が居た

②折檻状を送られた理由は5年間にわたり手柄をあげなかったほか、領地の管理能力・与力の扱い・人間性・果ては信長への口答えに関してなど、その内容が19にもわたって書かれている

③折檻状を受けてまもなく、信盛は高野山へ追放され、まもなく死去する。息子は後に許され、織田家に帰參した

怒りと呆れが入り混じった信長公からの手紙というのも、なかなかレアというやつだな。

こと佐久間信盛とは「信長から折檻状を送られ、さらに追放された」という不名誉な評価が付された武将として語られ、調べるに当たりその様な話ばかりが出てくるのも事実だ。

一方では少なからず功績も挙げ、家臣の誰よりも信長公への忠義心があったかもしれないという話があまり目立たないのは残念なことだが。

表に出てこないような話もあるし、よくよく調べたら考え方がくつがえるようなこともあるもんね。

ボクも信長さんを最初から推してたとか、退き佐久間とかの話を聞かなかったら誤解したままだったもん。

さもありなんだな。

それと折檻状とは関係ないが、度々名が挙がった柴田勝家が北陸に遠征した際にもちょっとした文を送っているんだ。

内容は細かな指示文らしいが。

うーん…心配性なのかな?

それとも意外に石橋を叩いて渡る性格なのかな。

もしくは神経質で筆まめな気質だったのかもしれないな。

まー大昔は電話もメールもないしね。

そりゃ手紙のやり取りがメインの連絡手段になるんだろうけど、もし現代のシステムが戦国時代にあったら一体どういうやり取りになってただろうね?

……そんなドラマとかあったような気がするけど。

絵文字もフルに使いこなす信長公が想像出来そうだな。

なにぶん新しいモノ好きの大名ゆえ、現代文化に適応するのも早そうだしな。

グループl〇neとか作ったりしてね。

……既読スルーなどしたら恐ろしいことになりそうだな。

悪口誤爆するのも怖そうだよね。

光秀「こないだ殿にボコされた。反乱起こしちゃおうかな」なメッセージをグループの方に送っちゃうとか。

本能寺の変がそういうノリで発生するのもどうかと思うが。

(誤爆した時点で信長公に追及されるだろうが、さも恐ろしい絵図になるだろうな)

了。

参考資料

太田牛一 著『信長公記』巻之下,甫喜山景雄,明14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/781194 (参照 2024-03-20)コマ番号24-25より

太田牛一 輯録 ほか『信長記』巻13-14,元和8 [1622]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2544604 (参照 2024-03-20)コマ番号10-13より

菊池正憲 『図解 戦国史 普及版』西東社 2010年 150-151頁 158~161頁 (参照 2025/05/25)

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