武士はキュウリを食べなかった?理由は○○に見えて恐れ多いから!

真夏。




日差しカンカン汗をにじませ、冷水でキンキンにしめたキュウリにかじりつく。




想像すると風物詩っぽくてなんか良い、けれど同じ夏野菜ならトマトの方が好み。




しかし今回はキュウリの話につき、文頭から無理やりふれて書いた。




こと江戸時代ではある理由でキュウリが武士に好まれていなかったという説が存在する。




その説の内容は時代ならではの事情もあり、現代ではまず起こり得ないことだが中々ユニークな話に思えた。

断面が徳川の家紋に似ている

a cucumber cut in half on a white background
Photo by Mockup Graphics on Unsplash

よく熟したキュウリを輪切りにした時の断面が、徳川の三つ葉葵の御紋に似ているから。




したがって、江戸時代初期頃の旗本武士は、恐れ多くてキュウリを食べるのを避けていたという。




武士の習いというべきか、徳川家への畏怖心が感じられる話である。

それだけ幕府の権力が強かった

キュウリを口にすることすら避けていたという話を聞くと、徳川幕府の権勢がそれほどゆるぎなかった時代だったことがうかがえる。




ここで少し歴史のおさらいとなるが、1603(慶長8)年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられた徳川家康は、武家政権を江戸へと開いた。




言わずもがなそれが徳川幕府であり、後の1615(元和・元)年には戦国最後の戦、大阪夏の陣にて、徳川家の脅威となり得る豊臣家を滅ぼしている(江戸幕府を開いたのは夏の陣よりも前ということも覚えておきたい)。




この時点で徳川家を脅かす者は存在しなくなり、後の幕末で15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い天皇家に政権を返上するまで、およそ260年もの長きに渡り天下が続くのだった。




ここまでの流れは日本史の教科書などでも割と知られたものとなるが、日本の歴史上において、こうした幕府というものは実は3つしか存在していない。




源頼朝が開いた鎌倉幕府、足利尊氏が開いた室町幕府、そして徳川家康が開いた江戸幕府となる。




そしてこの中で一番長く続いた政権が江戸幕府なのだ(鎌倉幕府がおよそ150年、室町幕府が約240年と江戸幕府に迫るほどだが、おしくも次点)。




単純に年数の長さのみで権威の強さをはかるのは不十分だとも考えているが、それほどまで継続した権力を徳川家がもっていたことは、事実にほかならない。




参勤交代などの施策を行い、各地の大名が幕府に対して反乱を起こせないようなシステムを作り上げていたのも、大政権が持続した1つの理由になり得ると推察できる。




もちろん、そんじょそこらの武士が巨大な徳川家に抗えるワケもなく、お侍がキュウリの断面にすらビビるのも多少は想像できる。

参勤交代についてだが、3代将軍・家光公の時代から行われたもので各地の大名を原則1年おきに、1年間江戸へと住まわせる制度だな。

その際、大名の妻子は人質として江戸屋敷に住まわせるほか、万一に備えて禄高に応じた兵や馬まで準備させ、あげくは江戸と自身の領地を行き来する費用も大名が出さなければならなかったそうだ。

大名の負担が計り知れないが、参勤交代の目的は各地の統制のほか幕府への反攻を抑制するためともいわれているから、効果としてはてきめんだっただろうな。

キッツイねー…。

そりゃ家族を人質に取られてかかるお金も自腹とか、反乱起こす気にもなれないよね。

時代劇の名シーンからも考えてみた

幕府の権力がすごかったのを分かりやすく感じ取れる例として、時代劇の「水戸黄門」の有名シーンを思い出すと良いかも知れない。




時代劇にはつきもの、黄門様ご一行が悪者たちをしばきたおすシーンの後は、家来の格さんが名セリフともに徳川の家紋である三つ葉葵の入った印籠をかざす場面へと変わる。




家紋を見せただけでその場のみんなが黄門様を徳川のお偉いさんだと認識し、それまで敵味方入り乱れてのカオスな現場が一気に厳かになる。




これは黄門様自身ももちろんで、ひいては徳川家が力を持っていることが分かりやすく伝わるシーンである。




しかも武士は印籠どころか、キュウリの断面を見ただけで家紋をイメージしてしまうのだ。




やはり徳川家への恐れと尊敬が入り混じって発生した考え方だと思えても仕方ない。

時代劇の水戸黄門ってさ。

最初から印籠見せたら、争いごとも起きないで済むんじゃない?

それは野暮というものだし、時代劇として成り立たなくなるぞ。

良いのか?

最初から印籠見せて「ヤベッ黄門様だ! もう悪いことはしません! お許しをー!!」などとなったら速攻で劇終だ。

おもむきも何もあったものじゃないだろう。

それもそうだけど、キミのセリフの例の方が面白かったよ!

キャラに合わないこと言うなと。

分かりやすいから言っただけだ。

ほっといてくれ。

町民は普通に食べていた?

食べるのを避けていたのはあくまで武士の話。




一般の町民たちはまったく食べないワケでもなかったらしい(権威に敏感な一部の町民は避けていたのかも知れないが)。




もっとも当時のキュウリは平安以前から中国より渡ってきた品種をいまだに食していた。




なお黄色く熟したものを使うため黄瓜(きうり)と呼ばれていたとか。




苦みも強い上にクセのある野菜だったらしく、もっぱら漬け物などへ加工して食べられていたもよう。




断面が葵の御紋に見えるという以前に味がそもそも問題だったという話なのだ。




ところが江戸後期になると初物を食す文化が流行った。初物を食べると長生きするという考え方が広まったためである。




こうした流行りが広まる速度は時代を問わず恐ろしいもので、人気の初物野菜や魚などの価格高騰をふせぐために幕府から規制がかかるほどまでになった。




そこで他の野菜と比べ早摘み出来るキュウリが一転、注目野菜となり初物として好まれたという。




それまで人気もなく逆に規制がかからなかったというのも理由として挙げられるだろう。




まさしくキュウリバブル。




なおこの江戸後期ではキュウリもすでに品種改良がなされ、風味や食感も良いものになっていたとされている。




かつて武士には敬遠され、町民には味を嫌われていたキュウリがようやく日の目をみたということだ。




さらにキュウリの別品種が明治時代にやってきてからは味・食感がさらに高まり、昭和からは生産量も増えて現代ではもはやメジャーな野菜の1つとなった。

さっきの水戸黄門も実はキュウリと少し関係があるんだよ。

食通の一面も持つ黄門様はキュウリを指して「毒多くして能無し、植えるべからず、食べるべからず」って言ってたらしいんだ。

植えるべからずってことで栽培も推奨してなかったらしいよ。

毒も多くて能無しとはなかなか散々な言われ様だな。

さっきもふれた美味しくなかったっていう黄色キュウリの時代だったのかな。

その時なら毒扱いされても仕方なかったのかもね。

大体水気も多いから食べ過ぎてオシッコも近くなるし、お腹ピーピーにもなるだろうし。

ひょっとしたら黄門様はキュウリを食べて体を壊しちゃったのかも知れないね。

だから毒って言ったのかも!

まとめ

キュウリの断面が徳川の家紋に見えるから、武士は食べるのを避けていたと知った時は少々無理がある話のように思えた。




が、幕府の権勢がハンパなかった当時を考えると納得せざるを得ない。




しかしたかがキュウリの話だ。




それにもし大根やナスビすら御紋のような断面だったら、はたしてこれらの野菜も避けられていただろうか。それとも輪切りにしない様に工夫して食べられていたのか。




これ以上は野暮ったい疑問ばかりになりそうなのでここらへんで締めようと思うが、もし江戸時代にタイムスリップしたとしてもキュウリなんて普通にバリバリ食べているだろう。




たとえば町民もキュウリを食べたら反逆罪に問われる、そんなパラレルな世界観だったら筆者は速攻で市中引き回しの上、打ち首になるかも知れない(実際はそんなに無慈悲な時代じゃないと思いたいが)。




それとここまで書いておいてなんだが、見比べてもらうためのキュウリと徳川の家紋の画像を都合により用意出来ていない。




読んでいただいた人には心苦しいが、ネット検索でそれっぽいのを探してもらうか。もしくは各々キュウリを用意して画像で検索した徳川の家紋と見比べてみて欲しい。

キュウリは夏野菜なだけあって体を冷やす効果があるんだ。

夏の暑さで火照った身体の体温を下げる効果があるのは、なかなか有益なことだと思うがな。

今じゃキュウリにも色んな品種が出来てるし栄養だってちゃんとあるんだもんね。

出来るなら当時の武士たちや黄門様にも、現代のキュウリを権威に気兼ねなく食べてもらいたいかな。

ま、キュウリの輪切りが家紋に見えることについてはどうにもなんないけどね。

そういうの気にするくらいなら、いっそ冒頭で書いたとおりそのままかじりつけば解決するでしょ!

了。

参考資料

松田修 著『植物世相史 : 古代から現代まで』,社会思想社,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12606046 (参照 2024-11-12)201ページ 胡瓜の項 4行目途中

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