ね? カエデ。
ん?
あれいつだっけ?
ほら、ボクたちがちょっとだけ戦国時代に行っちゃった時のこと――
それは、起きるべくして起きた。
天正十年六月二日未明。
織田家臣、明智光秀、謀反。
襲撃によって燃え盛る京の本能寺。
今、その本堂に2人の人物と1匹のネコが居た。
「明日も遊ぼうって言ったじゃん!そんなのってないよ!ボクたちと逃げようよ!!」
小さな身体からは想像がつかないほど大きい声で、コチョンは叫んだ。
信長は、目の前の小さな生き物の力一杯の願いに対し、腑抜けた笑みを浮かべる。
「約束をたがえてすまぬがここまでだ、お主たちの道はまだ先にある――速やかに立ち去れ」
言葉こそ希薄。
しかし、その表情にはコチョンの心を汲みとろうとする優しさ、少ししかめた眉から読み取れる悲痛な覚悟が混在していた。
「コチョンどの!」
同じく場に居合わせた女忍びカエデは、コチョンへと強く呼びかけた。
程なく近い場所で、何かが倒れ、木床を叩き割るような音。
はじめは大きく、徐々に小刻みに震える床。
建物を支える主柱か、その役割に近い要となる建材が次々と崩れはじめたのだ。
時が残されていないことを彼女は理解する。
「信長さん、もう、もう本当に会えないのかなあ?」
後の歴史を知るコチョンには、彼の行く末がどのようなものだったか想像に難くない。
だからこそコチョンの言葉は、分かっていようと変えられないことを理解した上での吐露。
だがこの時代で、かの戦国の魔王との予期しない交流によって生じた奇妙な友情からか、どうにか生き延びてほしいという感情を、コチョンは押さえきれなかった。
そしてそれは、不特定多数の依頼主との利害関係のみで成立する「忍び」のカエデですら。
都度、依頼を受け、お役目として達成することで報酬を得る、それがすべてという単純で無機質な世界で生きてきた彼女。
だが、この信長という人物にはなぜか昔から仕えていた様な、説明のつかない不可思議な懐古を感じていた。
「信長公、一介の人同士として接していただいた朔日、カエデは決して忘れませぬ」
カエデは最大限の敬意をはらって言葉を絞りだしたものの、瞳には涙をにじませていた。
それを見せないよう顔を伏せ、片膝をつき信長へと頭を深く下げる。
「ははは、ワシがふたたび男として生を、受けることがあれば、愛いそちをめとろうものを」
灰煙が侵食する中、信長は言葉を息荒く吐き、とうとう座り込む。
手には炎に煌々と照らされた抜き身の太刀。
しかしそれはもはや外敵にではなく、まもなく自らへと振るわれようとしているのは容易に推察出来る。
「……っ、ご厚意にあずかり、私どもはこれより去りまする!」
カエデは言うが早く、きびすをすでに外へと返していたが、その頬は寺を焼く炎に勝るほどの朱色に染まっていた。
かの大うつけが発した問題発言に、カエデは動揺を隠しきれないようだった。
一方の信長にとっては、別れの挨拶がわりにいよいよ冗談混じりに発したものだが、この初心な女忍はそれをまともに受けてしまうあたり、やはり初心な面を持っていたのだ。
いや、そんなことよりも。
信長への敬意を抱えながらも、燃え盛る本堂を背にする彼女の心には、同時に悔恨が渦巻いていた。
果たして、こういう結末だけしかなかったのだろうかと。
思いをかき捨てるように、流れず溜まった両目の涙を手の甲で雑にはらい、今度は眼前を険しく見据える。
信長を討ち取らんとする兵の怒号が、そう遠くない場所まで迫ってきているのが分かった。
思うが早いか、カエデは鋭い一歩目を踏んだ。
かたやコチョンは、2人のやりとりをほぼ意に介していなかったようで、すでに走り出したカエデに抱えられながら泣きじゃくっていた。
突如、寺全体がミシミシと聞きざわりな音を鳴らし、すぐの倒壊を思わせた。
邂逅の暇が尽きたのだ。
「もし、もし生まれ変わったら絶対遊ぼうね! 一緒にやりたいゲームがたくさんあるんだよー!」
離れていく景色に向かってコチョンは叫ぶ。
カエデが駆ける振動でこぼれる、大粒の涙。
雫が落ちて、炎に照らされた土を黒く濡らした。
眼前の少し遠く。
去っていく1人と1匹の友人を見やる信長。
(ワシともあろう者が、後ろ髪を引かれようとは、な)
戦国の魔王は自嘲気味にくっくと笑う。
今世で最後の光景。
炎と煙が作り上げる風雅なアーチの中央、闇の向こうへ去り行く姿に向けて、信長は言葉を発した。
聞こえるはずもない、ただの独り言のつもりだった。
直後、本堂が一気に崩れ落ちた。
轟音と同時。
煙と灰が空を一気に埋め尽くし、否が応でも顔がしかむほどの熱風が一瞬巻き起こる。
「ああーーーーっ信長さんが!!」
その姿はもう見えない。
コチョンが思わぬ力で脇から抜け出そうとするのを、腕を締め、カエデはなんとか阻止しようとする。
(痛かったらすまない)
その時のコチョンの気持ちは、カエデにはそれこそ痛いほど分かっていた。
天まで達するほどの濃煙が立ち上り、火の粉が広く広く、散る。
うごめく大小の炎に包まれ、中途半端に建物らしき形の瓦礫だけが残った。
本堂が崩れる無残な音だけを背後に聞きながら、カエデはコチョンを抱えたままひた走る。
今度は後ろを一切振り向かずに。
――すでに周辺は、おびただしい数の明智勢に囲まれ、まさしく蟻一匹抜け出せないほどの状況だった。
それを百も承知で、ならばこそ自分の脚力を頼りに、正面きって軍勢の只中を駆け抜けるのみが最善と、カエデは瞬時に判断する。
小脇に抱えたままのコチョンをかばいながら、下手に小競り合いをし、結果さらに多くの兵に取り囲まれる方が圧倒的不利ということが明白だからだ。
ほどなくして織田勢の生き残りを狙ったものか、無造作に放たれた矢が無数に降り注いできたが、持ち前の体さばきで矢雨のわずかな間を縫って、カエデは門外の方へとひた走った。
すぐさま脱走者を視認した兵たちが怒号をあげる。
彼らが振るう幾重の槍刃すら、舞うような足取りでかわしつつ、風のごとく敵陣へと突入し、身なりがとりわけ立派な武士の眼前、およそ十一、二歩まで迫った。
そして、その武士こそが明智光秀と、カエデは確信する。
走速をゆるめずに、相手を見据えて言い放った。
「あなたにとっても本意ではなかっただろう!!」
そう叫ばずにはいられなかった。
刹那、カエデはましらのごとく、光秀と近習の兵の頭上を飛び越え、いまだ暗闇が支配する京の街へと瞬く間に消えていった。
共まわりの兵は、あまりの唐突さと速さに、一瞬何が起こったかまるで分からない様相だったが、我に返るやいなや次々に謎の脱走者を追いかけようとした。
光秀はそれを手で制し、捨て置けと言う。
「装いを見るにおそらく忍びだろうが、信長様にあのような者が仕えていただろうか」
おおよその考えでしかなかったが、激昂した娘の表情を見るに、いずこかの大名に仕える忍びには思えなかった。
主君の命を受け、必要であれば人を殺める手段すら厭わない存在であればこそ、どこか虚ろな表情をしているものだと。
一方、あのように人間らしさが大っぴらで、澄んだ目をした忍びも居るのだと、たかだか一瞬の突き合わせで光秀はそう感じたのだった。
だからこそ捨て置いても無害だろうと、理屈のない判断を下したのである。
「信長様の忍びではないとすれば、まさかどこぞの抜け忍……しかし、本意ではない、か」
あの奇妙な脱走者が脇にネコを抱えていたのも気にかかるが、今はかつての主君を確実に葬りさる。
光秀にとって最優先の目的であり、成し遂げた後は世が変わると確信していた。
残骸の小山と化した本能寺を、まばゆい明けの光が、いつの間にか照らし始めていた。
蛍の光のような弱々しい火が無尽蔵にくすぶりつづけ、薄白い煙がまばらに立ち上っては、降り注ぐ陽光の中で、ふわりと溶けていく。
長い一日が終わろうとしていた。
――後の山崎合戦にて、陣中での一時、心腹の家臣に光秀は次のように語っている。
「兵の士気にかかわることゆえ、戯言と聞き流せ」
「あの時、突風のごとく現れた忍の娘がすれちがいざまに発した言の葉こそ、我が心胆であったと……今さらながらに思っている」
腹心の家臣はかしずきながらも、驚いたように光秀を見上げた。
その表情はかすかに眉がひそみ、苦し気に見えた。
光秀はさらに言葉を紡ぐ。
「どのような扱いを受けようと、それは主君の叱咤激励ととらえ、耐え忍ぶことがあるいは出来たのかもしれぬ」
「信長様が世をどのように治めるかを見届け、それでも己の考えが変わらぬのなら、その時にこそ進言致す生き方もあっただろう」
信長を討ち取る決心をするまで、光秀は果てない苦悩とひたすら戦っていた。
「早まってしまったのかもしれぬな」
この発言は確かに今さらというほかないが、心のどこかでは信長に仕え抜いた末、自身がどうなっているのか。
光秀はその先を見たいとも思っていたのだ。
もし「そちら」を選んでいたら、このひとかどの武将には別な命運が用意されていただろう。
しかし、もはや「たられば」にすぎない。
「殿! 羽柴の軍勢がすでに間近まで!」
見張りの兵が知らせを持って陣中に駆け込む。
「だがもう遅い、ならば自身が定めた道を突き進むまで」
光秀は手を高々に挙げた。
「通達せよ!これより秀吉を迎え撃つ!」
――本能寺の変。
日本史上、誰もが知る一大クーデター事件。
その首謀者とされている武将・明智光秀は、この山崎の合戦で羽柴秀吉に破れ、敗走時の山中にて武者狩りの農民に討たれた。
現代の一説ではそう伝わっている。
彼が信長を裏切った理由については、かつて敵方に人質として送っていた母が、信長の命令の影響で命を落としたこと。
徳川家康の接待役として任ぜられたものの、場での要領の悪さや不手際から、信長に激しく叱責されたことなど、いわゆる怨恨説がよく取り上げられる。
しかしその動機の真相については、現在も定説はなく、不明なままである。
事後のイメージからも、三日天下、裏切り者など、負の印象が付きまとう人物だが、彼が智勇兼備の武将として名を馳せたことも否定は出来ない。
また主を変え、各地を転々とした流浪の時期が長い稀有な武将でもある。
後に信長に見込まれたのは必然か偶然か。
織田直属の配下となり、筆頭家臣の一人に登りつめた末の謀反。
求めたのは太平か、権力か。
それともやはり恨みを晴らすためだったのか。
子細はいまだ謎に包まれたまま、かの武将もまた時代の露と消えた。
一方、光秀討伐の功労者となった羽柴秀吉は、織田家の今後の方針を決める清須会議において、信長の孫であり、齢三つの三法師を信長の後継に据えた。
しかし、幼すぎる三法師に政が行えるはずもないことは誰の目にも明らかだったため、秀吉は三法師の後見人となり、結果、権力を実質的に握ることになる。
恐らくそれが、秀吉最大の狙いだったのだろう。
さらに数年後、秀吉は瞬く間に各地の大名を平伏させ、豊臣秀吉と名も改めた。
本能寺の変からわずか八年足らず。
信長がなしえなかった天下統一を、かつて一介の農民の出にすぎなかった秀吉が地盤を引き継ぎ、成し遂げたのだった。
だが、この稀代の英雄が病で没した後、残る大名でもっとも強大な勢力を持つ徳川家康により、豊臣家は三代続くことなく滅ぼされてしまう。
たけきものもついには滅びぬ。
戦乱の世はひとまずの終わりを迎え、太平の世がはじまった。
――時はさかのぼること、光秀が討ち取られ、織田家の相続問題で大揉めとなっている、先の清須会議が行われている頃。
琵琶の湖を広く見渡せる、ある小高い丘の上で、カエデとコチョンは草の上に寝そべって空を眺めていた。
頭上の太陽がまぶしく、燦燦と地平を照らし、湖がまばらに煌めく。
周りの木々にも青々とした葉が生い茂り、この時代の盛夏が近づいていることを告げていた。
「ねえ、信長さんって最後になんかしゃべってなかった?ほら、カエデが走りだした途中でさ」
いつもの明るい調子に戻ったコチョンが、寝ころんだまま背伸びをして言う。
「ん、あの場から抜け出そうと一心不乱だったからな、私には何も……」
「なーんか聴こえたような気がしたんだけど、そっか……ま、ほんのちょっぴり遠くだったし、兵士の人らの声とか、火もボーボーでうるさかったし、気のせいだったかも」
「猫……コチョンどのの耳の良さでもそうなんだから、私に聞こえるわけがないしな」
それはカエデの嘘だった。
あの時、走り去る際に信長の姿を一目焼き付けようと、カエデは後ろを振り返っていた。
その時偶然にも、言葉を発する信長の様子が見えたのだった。
「また会おうぞ」
炎と煙で出来たいびつなアーチの中央で、彼は確かにそういっていた。
意図せずとも、たとえ距離が少々離れていても、彼女には分かってしまったのだ。
もっともこれは、優秀な忍び足るべく、読唇術の手ほどきをも受けていたカエデでなければ分からなかったことだが。
つまり、かの大名の生涯最後の言葉を知る貴重な存在となったのは、この女忍びただ一人ということ。
ともあれ、その言葉をコチョンへと伝えてしまおうものなら、またわんわん泣いてしまいかねないと思い、この優しい忍びは黙って自らの胸にしまっておこうと決めたのだった。
「……分かってしまうというのも、厄介なものだな」
「え?なんかいった?」
「ん?いや、なにも」
自らの愁い(うれい)を断ち切るように、カエデはさっと立ち上がった。
髪や衣服にひっついたわずかな枯れ草をポンポンとはらいながら。
はらった草がそよ風にのって、ひらひら空へと運ばれていく。
「さ、元の時代に戻る方法を探さないとな」
「ホント、なんでタイムスリップしちゃったかも分からないし、よりによってこんな時代にきちゃったしね。ま、是非もなしってやつだけど」
ネコは忘れっぽいとはいうが、このコチョンの場合は例外だ。
人語を話し解する、この不思議で賢しいネコは、貴重な友人となった戦国の魔王を生涯忘れないだろう。
ふと、吹きすさぶ風。
それはもうじき盛夏を迎えようとしているのに、するどい冷気をまとっていた。
思わず、コチョンは身震いした。
「さぶっ! ね、ひょっとしてこれ信長さんのいたずらだったりして」
「いくら信長公でもいまや仏となったのだからな、あり得ないだろう。それにここは湖の近くだし、冷風が吹くこともあるしな」
「わからないよ、なんせ世に名高いうつけものだからね」
「……そうだな、ひょっとしたらそうかもしれないな」
「ホントはね……」
コチョンは身体を起こし、目を細くしてぼんやりと湖を眺める。
風の筆が煌めく湖上に波模様を描いていた。
それを見て、コチョンはどことなく懐かしくて寂しい気持ちになっていた。
「――ホントはさ、カエデ」
「ん?」
「信長さんに教えてあげようかなって思ってたんだよね、自分がどうなるのか」
カエデはコチョンの顔を見ようとはしなかった。
顔を見ずとも、コチョンの心根を痛いほど分かっていたから。
「そうだな、それが出来なくはなかったからな」
カエデとコチョンはこの時代に来てまもなく、歴史の重要な要素となる事柄は、信長に限らず、ほかの人物へも一切伝えないことを、互いに決めていたのだった。
もしうかつにでも伝えてしまえば、未来にどんな影響を及ぼすか分からない。
タイムスリップを題材にした現代創作の劇中でも、その危険性は度々語られているし、その程度はカエデたちにも容易に理解出来ていたからだ。
光秀が謀反を起こすことを信長へと告げていたら、おそらく彼は生き延びていただろう。
だが、その後は?
光秀を処断し、勢力を更に高めて、東北や四国九州にまで領地を広げていたか?
全国統一を成し遂げ、徳川幕府に代わる大政権をたてていたか?
諸外国へ手を伸ばし、それらをも支配していたか?
さらにその後は?
江戸から令和までの時代は、さっぱり抜け落ちてしまうかもしれない。
歴史が変われば先々のことは白紙となり、どうなるか予測は付かない。
だからこそ、余計なことは一切するべきではないのだ。
この時代の人間や出来事と関わるにあたり、カエデはそのことを肝に銘じていた。
しかし信長と過ごした幾日の間、彼から聞かれたのは幸いなことに、現代の人間はどういう風に暮らしているのか、どんな物を食べて、どんな装いをしているか、せいぜいそういったものだった。
カエデたちが先の世から来た人間と知ったからには、たいがいの人物は先々のことを事細かに聞こうとするもの。
だが彼は自身のことや、核心となる史実について尋ねることはなかった。
信長があえてそうしなかったのは、運命が変わることで後世に多大な影響を与えることを懸念したからだろうか?
もしそうだとしたら、かの人物は思うよりもはるかに賢明な者というほかない。
「コチョンどのが先の世から来たと、信長公の前で口をすべらせた時は、頭が真っ白になったがな」
「それいわないでよ」
それにコチョンは本能寺の変の際、一緒に逃げようと信長に叫んでいた。
もし彼が応じていたら?
結局は歴史を変えることになっていたかもしれない。
信長が逃避の誘いを拒否したのも、ある意味で幸運だったのだ。
――またも風が吹く。
今度はさっきのような冷風ではなく、おだやかで少しだけ温い風。
「あ、信長さん、機嫌が良くなったかも」
「あの時のように元気に笑っているのかもな……それより、コチョンどの」
「なーに?」
「何となく大人っぽいな、今の感じ」
「それ普段は子供だってこと? ひどいなー」
風は1人と1匹の身体をやわらかに、いたずらっぽくなでたかと思えば、瞬く間に通り去っていった。
側に生える草花が、その余韻でさわさわと踊っている。
ほぼ同時、カエデたちは京の茶店で信長と共にくつろいでいた時のことを、ふと思い出していた。
――「令和の時代とは、かように多くのものがあふれた時代か!」
信長は串に刺さった三色団子を横から豪快にほおばり、栗鼠のように頬をパンパンにした。
そして数回大きく咀嚼したかと思えば、ほどよく冷めた茶でそれを一気に流し込んだ。
「うわー、ドカ食いって消化に悪いんだよ、信長さん(しかもそれ5皿目だよね、ま、ボクも同じだけ食べてるけど)」
「かまわん、一つも三つも同じこと。ネコのくせに細かいことを申すな、コチョン」
「……ネコのくせにってのはちょっと意味が分からないけど、小さなことを気にしないあたり、さすが戦国魔王ってとこかもね……」
「ほほう、ワシは後の世で魔王と呼ばれておるのか!それは心地よいな!」
「カッコいい呼び名だけど、ほめてんじゃないからねそれ、戦国無双だとそこそこ強いんだけどさ」
「その中ではワシはどれほど強いのだ?」
「残念ながら最強候補は忠勝だよ、信長さんはちょっと玄人向けキャラっていうか」
「ふむ、家康の元にそういう名の者がおるとは聞いたことがある。確かになかなか剛の者のようだが、それならばぜひ家臣に迎えたいものだ!」
「やっぱそういう発想になるんだね……」
やたらなれなれしい上、珍妙な会話ラッシュをかの大名とかわして、にこやかなコチョン。
少し離れた場所に座り、団子をほおばりながらも緊張感を保ちつつ、両者のやりとりを見守るカエデ。
そんな彼女の様子も意に介していないように、コチョンと談笑を続ける信長。
三者三様である。
こと信長は、不可思議な縁で少し前から交流を持つことになった女忍びと、人語を操る不思議な黒ネコとの対話を重ねる度に、その話の奇怪さ、目新しさにいちいち驚いている最中だった。
「それはそうとお主たちの時代では、海向こうの国々とも当たり前に交易を行っているのだな」
「はい、国同士の争いこそ、今でも大小問わず度々起き、苦しんでいる人々も少なくありませぬが、一方で文明はこの時代とは比較にならぬほど発展しておりまする」
「カエデーそれじゃおかたいよ! 信長さん、パソコンとかスマホとかAIとか、便利なものいっぱいあるんだよ!」
「そのぱそこんやら、すまほやらは、まじないの一種であるか」
「ちがうよ! 知りたいことすぐ調べられて、風景とか行きたい場所とか見れたり、映画とか音楽とか楽しめたり、あとアプリってのもあって……」
「あ、ぷり? 響きがなにやら愛いのう。しかしお主たちの話は聞けば聞くほど奇っ怪で興味深い」
信長は扇で顔をパタパタあおいでいたが、手をぴたと止め、今度は扇の先端であごをトントン叩いた。
眼は涼しげで、空の向こうの、さらにその遥か先を見つめているようだった。
「だがワシは安堵した。たとえ様相を変えようと、お主たちの時代でもこの国が未だ『ある』ということがな」
「時が進み、海を隔てた国との交流が盛んになれば想像にもよらぬ事象が起こるは必然、その影響から民を護り、国を維持するというのもまた、並大抵ではないとワシは考えている」
「そのために今は力を持たねばならぬ、何者も寄せ付けぬ強大な力をな」
信長は扇を太陽に向かって、びっと突き出し、歯をむき出しに笑って見せる。
「なに、ワシが海向こうの国々と交易を禁じぬのも、きゃつらの文明を吸収して、さらに巨大で強い国を作るためよ」
「だが話を聞くに、少し肩の荷が下りた。ワシがやらずとも、世は引き続き進歩しておるのだな」
(さて、ワシの後は信忠か、サルか十兵衛か、もしや権六か、それとも……もっともこやつらにはすでに答えは知れているのだろう)
信長は扇を懐に収め、フフッと笑いながら3人分の代金をその場に置き立ち上がると、薄く眼を閉じて大きく背伸びをした。
そして首を傾け、コキッと軽快に鳴らして見せる。
「さて、コチョン、お主が持っていたげえむとやら、指先の器用さは問われるがコツはつかんだ、今度はあのもんすたーとやらを無傷でたおしてみせようぞ」
「ほんとかなー? 信長さん勢いだけで、また1人で3落ちするんじゃ……」
「はっはっは! この信長をあなどるでないわ!」
「あのー私は……」
カエデは自分の立ち位置を図りかねていた。
それもそのはず、コチョンは持ち前の人懐っこさと天性の図々しさで、信長の心をすでに掴んでいたのだった。
かたや自分は一介の忍び、本来信長のような大大名とはおいそれと口も聞けない立場だ。
だからこそ、この稀代の大名とは出会った際からも、少し距離を保ちながら接していたのだった。
だがカエデ本人も気が付かないうちに、あけっぴろげで好奇心旺盛で子供のような面を持つ信長に、少しづつ好感を持っていたのも確かである。
まるで後世に伝わる冷酷な魔王信長像がウソであるかのようだった。
「カエデは町でゆるりとくつろいで参れ、それともこの後、ワシと風呂にでもつかるか? 背中を流させてやろうぞ」
「なっ!! は、破廉恥な! いくら大名とはいえ、そういう扱いは我慢ならないぞ!」
「カエデ、ウブだなー」
「のうコチョン、この大仰な返しを見るに、カエデはまだ小娘であるか」
「うーん、そうかもしんない」
コチョンは信長の言葉の意味が分からないのか、あえて分からないフリをしているのか、気のない返事をする。
まったくもって底が読めないネコである。
「ならば悪いことをいうたな、まだまだ真白い小娘であったか、そうじゃ、そうじゃ金平糖でも買ってやろうか? ん?」
「その扱いは扱いで腹が立つな」
「おお、カエデがほんに紅葉しておるわ! のうコチョン!」
信長は心から愉快に笑うのだった。
京の街に風が吹いた。
二人と一匹、この奇妙な取り合わせを優しくなでて去る、そよ風。
まもなく訪れる別れまでの穏やかな一時。
戦国の魔王との不思議で温かな邂逅。
その後、カエデとコチョンが無事、現代へと戻ってきても、時代を闊達に生きていた1人の大名の、ほかの誰もが知ることがない稀有な姿を忘れることはなかった。
おわり。
気付けば、この時代へと戻っていたが……ついこないだのような気もするし、ずっと昔のことだったような気もするな。
でも、本当はただの夢で、そんなことなどなかったのかも知れない。
実に不思議な感覚だったな。
ボクも……戻ってきてから、しばらくはなんかボーッとしてたし。
でもはっきり覚えてることもあるから、やっぱ夢とか幻じゃないよ。
だって2人して同じ体験するなんてありえないんだから。
なんでそんなことになったかは、ぜんぜん分からないけどね。
そうだな。
だが、あの出来事はけっして悪いことではなかったのだ。
私はそう確信している。
了。
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