信長からマジ説教を喰らった不運な武将?佐久間信盛と折檻状

カエデ。

上司に手紙でガチ説教されたことってある?

へぁ? 手紙で?

私にとっての上司が忍びとして育ててくれたお人か、お役目の依頼主ということであれば思い当たらないな。

だいたい説教されるにしても直接口頭でだな。

ま、手紙にしろ口頭にしろ、キミってあまり人に怒られるようなタイプじゃないか(一応、優等生なくノ一っぽいし)。

それはそうと今はSNSの時代だし、メールとかli〇eでの説教メッセージって少なくないのよ。

気軽にやり取り出来るようになったせいで、24時間関係なくメッセージが届いて問題になっちゃったり。

時代というやつだな。

そう、ボクもどうかと思うんだけどね。

それもそうなんだけど、戦国時代にも長文の手紙で、上司からめっちゃキレられた武将が居るみたいなんだよ。

上司って誰もが知ってるあの戦国大名さんなんだけど、怒られた武将が誰かは知ってる?

佐久間信盛(さくまのぶもり)のことか?

手紙とは世にいう折檻状というやつだろう。

かの信長公がしたためた書状とされているな。

さすが話が早いや。

そう、手紙ってあの信長さんからなんだよねー。

余計怖いよね、すっげー短気って聞いたことあるし。

信長公の人格についてはさまざまに伝わっているが…。

カエデはその手紙の内容まで知ってるの?

おおまかにはな。

もっとも今の時代であれば、それが書かれている伝本を我々が見ることも可能だぞ。

一体どういう内容なんだろね。

信盛って人はなにやらかしたんだろ。

ブルブル(ジョワー)。

(……アレ? 漏らした?)

長ーいお説教の手紙をもらった人

出典:芳虎 画『繪本太閤記』三編,松延堂伊勢屋庄之助,[1871]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/10303872 一部トリミング

佐久間信盛は1528大永8・享禄元)年、尾張(愛知県西部)に生まれた戦国武将で、織田信秀(信長の父)・織田信長の親子二代に渡り仕えた。

信長が関わった多くの戦に参戦し、10年ものあいだ続くことになる石山本願寺との戦いでは、およそ5年間、天王寺砦の総大将を任された。

後に信長から叱責の書状を送られたあげく、高野山へと追放される。

信長から許しを得ることがないまま1581~82(天正9~同10)年、53・4歳ほどで病没したと伝わっているが、はっきりとした死因は今も不明。

崖から足をすべらせ、転落死したという説も存在する。

そして佐久間信盛へと届いた叱責の書状、つまり折檻状は1580(天正8)年8月に信長から送られた、彼とその息子の功績や態度に対しての長いお説教が書かれた手紙のこと。

19にもおよぶ箇条書きで散々に記されたその末文では、手柄を立てるか、武士らしく戦で死ぬかの選択を信盛らに迫って締めくくられている(それが出来なければ頭を丸めて出家しろとも記されているので、信長の誇張でなければ三択)。

もっと雑な書き方をするなら。

長々とツッコまれたあげく「おめーら、このまま手柄もなけりゃもう頭ツルツルにするか〇ぬかだな」と結びまでが容赦ない、信長からのアツいアツいメッセージである。

読んだ信盛たち親子の心中ははたして。

筆者が信盛たちであれば提案どおり高野山へ入り、頭つるつるにして大人しく出家する方を選ぶかもしれない。

しかし時代劇やドラマなどの創作で見られるように、信長公が激しい気性の持ち主だった可能性で考えると、たとえ出家しても公の気分が変わり、遠乗りついでにこ〇しに来るんじゃないかという恐ろしささえ感じる。

書かれているところ

今では信長公にまつわる記録が書かれた信長公記という本から、折檻状の内容が見られるんだ。

次の画像右側の覺(おぼえ)の字からはじまり、文頭の一の字ごとに箇条書きされたものが延々と2ページ目までおよんでいるぞ。

出典:太田牛一 著『信長公記』巻之下,甫喜山景雄,明14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/781194 一部トリミング
出典:太田牛一 著『信長公記』巻之下,甫喜山景雄,明14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/781194 一部トリミング

読めん! 昔のやつじゃん!

読めない文字とか漢字も多いし、なんかお経みたい。

いやがらせ?

そういうつもりではないが…。

もう少し後で1つ1つの文を訳したものをちゃんと用意してあるから、少し待つようにな。

そんなら良いけど…。

だいたい昔の書物とはいえ、これでも読みやすい方なんだぞ。

ちなみにこの本は信長公の家臣・太田牛一(おおたぎゅういち)が記した信長記、その写本から折檻状の部分を抜き出し、使わせてもらったものだ。

写本というのは原本から写し取って書かれた、いわば二次的な本だな。

そしてこの写本は、明治時代に甫喜山景雄(ほきやまかげお)という記者によって刊行されたもので、我自刊我本と名付けられているものだ。

二次ってことは信長さん本人が書いてたのとちがってるかもしれないんだよね?

だってこれ本人が書いたものじゃないんでしょ?

もっともだが、信長公による折檻状は今のところ我々が読む手段はない、残念だがな。

だが先ほどの牛一による直筆本は今も存在していて、そこにも折檻状の内容はちゃんと記されているんだ。

たとえ本人のものではなくとも、近しい者が信長公について書いた……それも直筆とされた本なのだから、これを拠り所としない手はないのだがな。

とりあえずその本のことについては後々話そう。

それぞれの意味は?

ここからは折檻状の文言一つ一つを抜き出し、おおまかな訳も付けていこうか。

もっとも19もの文章になっているから、見出しも3つに分けたがそれでも長いので気長に付き合ってもらいたい。

訳についてだが、筆者どのの私訳ゆえにまちがいもあるだろう。

しかし出来るだけ正確に、まがりなりにも伝わるように心がけたようだぞ。

私はそこに一言(コメント)を加えていく役だな。

私訳っていうか超意訳ってヤツだね

文を写して入力するために、パソコンのIMEパッドで探した漢字も多いんだよね(今だと筆者なんかが訳さなくても、現代語訳の本とかから引用させてもらえば良いのに……意地かな?)。

ホントに長丁場になりそうだから、スマホいじりながら聞いても良い?

構わんが、ホントは聞く気ないだろう?

まあ、とりあえず始めようか。

1.父子五ヶ年在城之内に善惡之働無之段世間之不審無余儀我々も思あたり言葉にも難述事

訳→お主ら親子は5年ものあいだ天王寺の砦に居ながら手柄一つあげていない。世間もそれを疑うことはもっともで、こちらにも思うところがあり言葉にもできん。

佐久間信盛と子息・信栄(正勝)には石山本願寺戦のおり、信長公に砦の作戦指揮を任された時期が5年ほどあった。

その期間、何の進展もなかったことに信長公は呆れているんだな。

しょっぱなからボロクソだし、フォローをする気もないみたいだね。

でも長いこと手柄をあげていないんだったら、仕方ないんじゃない?

2.此心持之推量大阪大敵と存武篇にも不講調儀調略道にも不立入ただ居城之取手を丈夫にかまへ幾年も送候へは彼 相手長袖之事候間行く行くは 信長以光可退候條去て加遠慮候歟但武者道之儀可爲各別か様之折節勝まけを令分別逐一戦者 信長ため且父子ため 諸卒苦労をも遁之誠可爲本意に一篇存詰事分別もなく未練無疑事

訳→本願寺を強敵と考えたのか、お主らは武力行使もせず、知略をめぐらせることもせず、ただ砦の守りを固めただけで何年も経たせたが、この信長の威光のみで敵が勝手に降参するとでも思ったのか? それは武の道にあらず。勝敗を見定め戦ってこそ、この信長もお主ら親子も本懐であったはず。判断力を欠き、一方的な考えにおちいったのは未練たらしいことうたがいもない

信長公には信盛親子が砦の守りを固めただけで、何の行動も起こさずにいること。

あまつさえ「自分の威を借りて戦を終わらせようとしているのでは」という皮肉すらこめて、非難している。

確かな手ごたえを感じられる成果を本当にほしがっていたのだな。

2段構えで責められた感じだね。

変化がないことによっぽど呆れてたんだろうね。

3.丹波國日向守働天下之面目をほどこし候次羽柴藤吉郎數ヶ國無比類然面池田勝三郎小身といひ程なく花熊申付是又天下之覺を取以爰我心を發一廉之働可在之事

訳→光秀は目覚ましい働きをし、秀吉もほかと比べられぬほど活躍している。池田勝三郎にいたっては録は少ないもののわずかな期間で花熊城を攻め落とし、その功績を天下に知らしめた。これらに負けじと心を振るい、お主らも手柄を挙げるべきである

丹波國日向守は明智光秀、羽柴藤吉郎は豊臣秀吉のことだな。

後に本能寺の変で謀反を起こす光秀も、それを破って天下人となった秀吉公も、この頃は織田家で活躍する武将の1人であったからな。

もう1人の池田勝三郎とは織田家臣・池田恒興(いけだつねおき)のことで、当時の禄高(現代でいう給料だな)が低くとも、摂津国の花熊城という場所を攻め落としたことをここで称賛されている。

彼ら3名が目覚ましい活躍をしているのを引き合いに、信盛親子を奮起させようとしている風にも思えるな。

ほかの人と比べて叱られるって、リアルでもキツいヤツだ。

光秀とか秀吉なんて信長さんの部下でもかなりのエースじゃん。

比べる相手が相手だし、少しかわいそうかも。

4.柴田修理亮右働聞及一國を乍(ながら)存知天下之取沙汰迷惑に付て此春至賀州一國平均申付事

訳→勝家はこやつらの活躍を聞いて、すでに一国を持つ身でありながら奮起し、春に加賀を平定してみせた(それなのにお主らときたら)。

(最後のカッコ内は筆者どのがノリで書いたのだろうな)

柴田修理亮(しばたしゅりのすけ)とは信長公の重臣、柴田勝家のことで、修理亮とは朝廷から与えられた官位だ。

このことから柴田勝家は官職も授かっていたことが分かるな。

ここでは勝家が光秀たちの活躍を耳に奮起し、加賀の一向一揆を鎮圧したことを信長公は称賛し、この出来事を信盛たちに当てつけて書いているようだ。

うへー! また比べてる!

ボクならもう泣くよ!

当時の信長公は一向一揆の抵抗にも頭を悩ませていただろうから、この功績は織田家にとってもとりわけ大きいものだったはずだ。

特に加賀の一向一揆勢は強大な団結力をほこり、およそ100年ものあいだ守護にとって代わって実質的に土地を支配していたという。

しかも勝家は加賀攻略の際、越後の上杉謙信公をも相手取らねばならない状況だったが、後の結果として一大勢力にふくれ上がった加賀の一向一揆勢を滅ぼせたワケだな。

そんな大変な状況下で手柄を挙げたのもすごいね…。

ちなみに加賀の一向一揆平定は1580(天正8)年11月の出来事とされている。

その頃に一揆の指導者の首を信長公のもとへ送ったらしいからな。

もっとも謙信公が没した後に平定が成ったのだから、それまでは勝家にとってまさしく正念場だったということだ。

あのさ、ちょっと気付いたんだけど…。

折檻状は8月に送られているのに、実際に加賀を平定したのは11月、しかしこの条文では春に平定したと書かれている。

その時期のズレのことか?

なんで分かったんだよ。

なぜなら私も違和感を感じたからだ。

しかし私はこう考える。

勝家が春に加賀を平定したと書いたのは、恐らく閏(うるう)3月に本願寺との和睦が成ったからではないかと。

和睦とはいいつつ実質本願寺側の降伏で、この段階で各地の一揆衆は力を失ったも同然ということだ。

へ? ぜんぜん分かんないよ。

だってまだ加賀を正式に平定したってことじゃないよね?

それって11月ってことになってるし。

もしかして…相手はもう力をなくしているからってことで書いちゃった信長さんの見切り発進的なやつ?

まあもう少し聞け、まもなくして柴田勝家らが加賀一揆の拠点とされた尾山御坊を攻め落としているんだ。

これは功績であると同時に、こうなるとやはり加賀の一揆衆の力は風前の灯びで、平定したも同然というとらえ方にしたのではと。

もっともコチョンどのがいうように本来は11月の段階で平定が成ったと考えるなら、いささか時期尚早な意味合いで文が書かれているともいえる。

だがあまりに信盛がふがいないから、勝家の手柄を少々盛ってでも当てつけたという見方も出来ると思うぞ。

そんなもんなのかな。

(文の作者がまちがって書いたわけじゃないよね?)

5.武篇道ふかひなきにおいては以属詫調略をも仕相たらはぬ所をは我等にきかせ相済之處五ヶ年一度も不申越之儀由斷曲事之事

訳→戦さ人としての働きに自信がないのなら、知恵をしぼり、その上で足りぬと思うところがあればワシに相談すれば良いものを、この5年ただの一度も報告すらなかったであろう

これはちょっと信盛たちも悪い様な気がするけど。

確かに魔王みたいな人に軽はずみな報告もしたくないけど、考えてもダメだったら相談くらい持ちかけても許されたんじゃって思うよ。

現代でいうところ報告・連絡・相談(ほうれんそう)を怠ったことに怒っている様だな。

実はそういうのが全くないワケではなかったのが次の文で分かるが…。

6.やす田之儀先書注進彼一揆攻崩においては残小城共大略可致退散之由載紙面父子連判候然處一且届無之送遣事手前迷惑可遁之寄事於左右彼是存分申哉之事

訳→お主らの家臣・保田から届いた書状によれば、本願寺にこもる一揆衆を葬れば、ほかの砦の一揆衆も退散するだろうと書かれ、これにはお主ら親子も連判している。が、そのような相談は一度としてなく、書状にて突然知らせてくるのは、実に勝手でありうやむやに言い訳をしているようにしか思えぬ

保田という人物だが信盛親子に仕えた保田安政か、もしくは保田知宗という人物とされている。

軍略らしきものを記した書状を、この者に送らせたことに対しての指摘か。

よほど取りつくろっているように見えたのだな。

信長さんの気性なんてボクたちも知らないから、相談しづらいってのは分かるけど。

でもこれって保田って人が考えたにしても立派な提案じゃない?

何でダメなんだろう。

相談を持ちかけろと言ってみたり、かたや提案しても言い訳がましいととらえられたりするのだから、ちょっと矛盾は感じるが…。

「そんなこと言われなくとも分かる」という風に軍略のお粗末さ(かどうかは定かではないが)にも呆れていたかもしれないな。

あとさ、この部分の後半ってもうひらがなすらないよね(お経だよもう)。

筆者もここ打ち込むのにすごい目が疲れたみたい。

その2

7.信長家中にては進退各別に候歟三河にも與力尾張にも與力近江にも與力大和にも與力 河内に與力 和泉にも與力 根來寺衆申付候へは紀州にも與力少分之者共に候へとも七ヶ國之與力其上自分之人數相加於働者何たる遂一戦候共さのみ越度不可取之事

訳→お主らは我が家中において、格別の待遇を受けている。三河からも与力、尾張からも与力、近江からも与力、大和からも与力…河内…それと和泉からも…さらに紀伊からは根来衆まで付けている。それぞれからはそう多くはないが七ヶ国から与力を与えているだろう。これにお主ら直属の配下まで数に加えれば、いかな戦でもそうむやみに後れを取ることはないはずだが、な

信盛親子は織田家から破格の待遇を受け、およそ7か国から人手を与えられているのだから、そこに直属の家臣も加えればある意味手柄を挙げて当然…そういう感じの文だな。

まあ相手は信長公の生涯で最強の敵とも目された石山本願寺勢なのだから、そこを担当する武将に人手や物資を多く付与するというのはもっともなんだがな。

それにしても功績らしい功績をもたらさないことに、ここでも呆れているようだ。

与力の連呼が怖い…。

ねえ、このへん完全に怒りに任せて書いてない?

8.小河かり屋跡職申付候處従先々人數も可在之と思候處其廉もなく剰先方之者共をは多分追出然といへとも其跡目を求置候へは各同前事候に一人も不拘候時は藏納とりこみ金銀尓なし候事言語道断題目の事

訳→信元が治めていた刈谷を与えたから、配下の者も増えたと思ったが、信元の旧家臣を追放してその録を奪い取り、単に私腹を肥やしただけであるな。それらを自らの直轄としたことも言語道断である

信元とは水野信元という名の織田武将であり、家康公の叔父でもある。

かつては信長公と家康公との清州同盟を取り持ったほどの人物なのだが、一説では信盛の策略により謀反の罪を着せられ、ついには信長公に処罰されたと伝わっている。

その後、信元所領の刈谷の地は信盛に与えられたのだが、上手い運用も出来ず目下の者への非道なふるまいからかこれを叱責されているな。

信盛たちも悪いよね。

策略って人をおとしいれたってことでしょ。

人の領土をもらっておいて、元々居た人たちを雑にあつかったりして、要するに自分たちのことしか考えてなかったんだよね?

キレられて当然じゃない?

そこで先ほどの謀反の罪の話だ。

詳細は敵城と信元の領地のあいだで食料調達の密約らしきものがあると知った信盛による進言が発端らしいのだが。

それは建前で信元は尾張と三河の二国間に領地を持つ有力大名でもあったから、その影響力が織田・徳川両家から危ぶまれ、それで謀殺へと追い込まれた見方もあるんだ。

もっとも信長公が信元のことをどう考えていたかは一旦おいて、信盛親子への領地管理問題を追及していたことは確かだろうな。

9.山崎申付候尓 信長詞をもうけ候者共程なく追失之儀是も如最前小河かりやの取扱無紛事

訳→山崎においても同じこと。あまつさえこの信長が気にかけた者どもを勝手に追放した所業も先の刈谷の件と同じだ

信盛は尾張の山崎城まで与えられていたが、そこに居た家臣たちの中には信長公に直に期待をかけられていた者も居たようなのだ。

それらの者も追放した傍若無人なふるまいも、前文と同じような魂胆だろうと攻めたてているようだな。

追撃喰らったね。

今でいうと管理能力といったものが欠けていたり、自分の直參家臣でない者には冷たくしたりなど、人格に問題があるようにも見受けられてきたな。

もっともこれらが真実であればの話だが。

10.従先〻自分尓拘置候者共尓加增仕似相尓與力をも相付新季尓侍をも於拘者是程越度は有間敷候尓しはきたくはへ計を本とする尓よつて今度一天下之面目失候儀唐土高麗南蠻まても其隱有間敷之事

訳→以前からお主らに仕えている忠臣たちへ録を加増したり、与力を付けてやったり、またあらたに配下の者を取り立てるなど行えば良いものを、これもまた私腹を肥やすだけであったな。唐・高麗・南蛮などの国々へもその悪評が伝わるだろう。

もうよしたげてよ。

これでトドメみたいなもんじゃん。

ますます自分たちのことしか考えていない様子に、信長公も怒り心頭といったところか。

諸外国まで評判の悪さが伝わるとまで書いているのだからな。

ところで、もう半分くらいだよね。

折檻状。

だいたいの内容はこんな感じでってことで、ここいらでやめにしない?

残念ながらもう少しだけ続くんじゃよ。

ここまで来たのだからガマンするように。

「続くんじゃよ」って…。

(亀〇人のごたる!)

その3

11.先年朝倉破軍之刻見合曲事と申處 迷惑と不存結句身ふいちやうを申剰座敷を立破事時尓あたつて 信長面目を失其口程もなく永〻此面に有之比興之働前代未聞事

訳→先だって朝倉を打ち滅ぼした際に、戦況の見誤りについて指摘したところ、口答えをした上に席をも外したであろう。お主はワシに恥をかかせおった。その割に今の体たらくは前代未聞であるな。

朝倉とは越前国を支配していた大名・朝倉義景のことだな。

その朝倉を滅ぼした後なので本来は戦勝を祝うべきなのだが。

この当時、信盛の戦ぶりを指摘した信長公だが、口ごたえをされたあげく席まで途中で立たれたことを思い出し、ここぞとばかりに怒りをぶちまけているところだ。

仕えるお殿様に口ごたえしてエスケープまでしたら、斬られてもおかしくないんじゃ。

これってその場ではスルーされたってこと?

少々、おどろくべきことではあるのだがな。

いきなりのことゆえ、本来は信長公も信盛を斬るところ、あぜんとしてしまって何も出来なかったのか。

もしくはコチョンどのが言うように、かろうじてその場では処罰しなかったか(ほかにも裏切った家臣を許したり、説得したりという面もあるワケだしな)。

しかし年月が経った後でも、信長公の怒りは冷めやらなかったのだな。

かえって怖いよ!

ずーっと根に持ってたってことだよね…。

朝倉が滅ぼされたのが1573(天正元)年8月18日に起こった一乗谷の戦いでのことで、折檻状が書かれたのが1580(天正8)年8月頃だ。

ともすればおよそ7・8年ものあいだ、腹の奥底に怒りをひそませていたということになるな。

信長公は。

それまで何も起きなかったのスゴイね。

ボクが信盛だったら勢いだったとしても、めっちゃ後悔するだろうし、いつ処罰されるのかガクブルもんだけど。

私の予想だが近習の配下には散々グチっていたかもしれないぞ(森蘭丸とか)。

逆に誰にも言わずだとしたら、それはそれで信長公の胆力の底深さが分かるだけだ。

そういうのが分かる文献でもあれば、信長公の怒りの程がより浮き彫りとなるだろうな。

12.甚九郎覺悟條〻書並候へは筆にも墨にも述かたき事

訳→息子・甚九郎(信栄)の罪を並べたてれば、キリがない。

あ、息子に矛先がいった。

子息の信栄に関しての直接の文はこれだけだが、ある意味で父親よりも呆れられているようだな。

13.大まはしにつもり候へは第一欲ふかく氣むさくよき人をも不拘其上油(断)之様に取沙汰候へは畢竟する所は父子とも武篇道たらはす候によつて如此事

訳→おおまかに言うならば欲深く、人間味もとぼしく、良き人材を配下にも迎えず。つまるところお主ら親子はそろいもそろって武篇道にもとることはもっともである

アレ? 武篇道ってさっきも見たんだけど。

これって今でいう武士道のこと?

まちがってるワケじゃないよね?

今さらだが武篇道(ぶへんどう)というのは、武士の心構えとか戦場にて武を振るうという意味もあるようだな。

信長公はこの武篇道を重んじ規範として掲げていたというぞ。

武士道とは本来の意味はちがっているかもしれないが、同じようにとらえてもおかしくはないだろう。

14.與力を専と(し)余人之取次にも搆候時は以是軍役を勤自分之侍不相拘領中を徒に成比興を搆候事

訳→取り次ぎや軍に関する一切を与力に任せっきりで、直属の家臣を使おうとはせず、領地すら有効に活用しておらぬ

信長公から与えられている者たちばかりを使って、自分の配下を使おうとしない。

オマケに領地の運用もはかばかしくないと責められているところだな。

こういう短い文だと訳もしやすくて良いんだよね。

どっちにしても怒られている内容みたいだけど。

15.右衛門與力被官等に至まて斟酌候に事たゝ別條にて無之 其身分別に自慢しうつくしけなるふりをして綿之中に(しまはり)をたてたる上をさくる様なる こはき扱付て如此事

訳→家臣・与力ともどもお主に対して遠慮している。自らを自慢し良い素振りでいるように思えて、その実、綿の中に針をかくし立てているかのような扱いを(それら家臣へと)している。結果、今の状況を作り上げているのだ。

信盛の性格が少しうかがえる文になっているな。

自尊心が高く、目下には冷たい人間のように思えるが、これは信長公が信盛とはそういう性質の持ち主ということを誰かから聞いたのか、それとも実際に目にしてそう言っているのか分からないところだ。

真実はいかにだがな。

ぜんぜん関係ないけど。綿の中に針をっていう言い回し、なんか詩的だね。

この部分書いた後の信長さんって「フフン、良い表現だろう」って少し気持ちよくなってたりして。

16.信長代になり三十年 逐奉公之内に佐久間右衛門無比類働と申鳴し候儀一度も有之ましき事

訳→お主がワシに仕えて30年の内に、信盛が働きはほかと比べるものなしと聞いたことなど、ただの一度もない。

もしかするとこの箇所を書いた時の信長公は、ある種の無念さを感じながら書いたのではと思っている。

ある意味で信盛が比類ない働きをしてくれることを心より望んでいたのかもしれないな。

私個人としても少しばかりやりきれない気持ちになったところだ。

そう考えるとちょっとした寂しさも感じるところだよね。

「色々目をかけたのになんで活躍してくれないんだ!」ってね。

17.一世之内 不失勝利之處 先年遠江へ人數遣候刻 互勝負有つる無紛候然といふとも家康使をも有〻條をくれの上にも兄弟を討死させ又は可然内者打死させ候へは其身依時之仕合遁候かと人も不審を可立に一人も不殺剰平手を捨ころし世に有けなる面をむけ候儀以爰條々無分別之通不可有紛事

訳→ワシの生涯で負けというべき唯一の戦は、先の遠江に援軍を送った時のみで、勝ち負けの習いがあるのは仕方のないことである。その際に家康のことがあれど、お主の軍では兄弟やしかるべき身内の者が討ち死にしたとあれば、その身が助かろうと人々は不審に思わなかっただろう。だがお主の家中の者は誰一人死んではおらん。あまつさえ平手(汎秀)を見捨てて死なせ、平気な面をしていること。無文別にもほどがあろう。

遠江(とおとうみ)へ援軍として向かった信盛についての話だが、これは武田軍と織田徳川連合軍とが争った三方ヶ原の戦いのことだな。

武田軍(約25000~27000人)に対し、徳川と織田を足した軍勢(約11000人)の圧倒的な兵力差もあって、信盛は勝ち目が薄いと思ったか、家康公の援軍として向かっておきながらもまともに戦おうとしなかったらしい。

もちろん信盛勢に損害といえるものはなく、あまつさえ織田重臣の1人、平手汎秀をこの戦で失っても、残念なそぶりすら見せなかったらしいのだ。

先の言い方を借りるなら武篇道にもとるふるまいといえる。

ところどころで腹黒さが目立つ人だな。

18.此上はいつかたの敵をたいらけ会稽を雪一度致歸參又は討死する物かの事

訳→この上はいずこかの敵を倒し、汚名をそそいでワシの元へ戻るか、それが出来なくば討ち死にせよ

これと次の文は一緒でも良い風に私も思ったが…。

ちくいち分けているところを見るに、1つ1つの文として怒りを込めているといった信長公の感情が垣間見られるようだな。

19.父子かしらをこそけ高野の栖を遂以連〻赦免可然哉事

訳→父子ともども髪を剃って高野山に入り、連々と許しをこうが当然であろう

19条目、これが最後の条文だが、親子は出家して延々詫びを入れろとさらに突き放した感じだ。

ここも怖いよ!

頭ツルツルになっちゃうよ!

コチョンどのは関係あるまいに…。

(毛がまったく生えない種類のネコが居るのを急に思い出したぞ)

右數年之内一廉無働者未練子細今度於保田思當(あたる)候(様)申付天下 信長に口答申輩前代始候條以爰可致當末二ヶ條於無請者二度天下之赦免有之間敷者也 天正八年 八月日

訳→この数年のうちに手柄も挙げず、武士としてあるまじき未練、この度の保田の件でよく分かった。そして天下を治めんとするワシに対してお主のように口ごたえをする者なども居らん。当末二条の内いずれかを成し遂げよ。それが出来なくば天下(自分のこと?)はお主ら親子を二度と許すことはないであろう。

これは条文ではないが、トドメのあとがき文だ。

長かったね……。

のどかわいちゃったよ、ちょっとお水飲まして。

お疲れさま。

ここまできてなんだが、6条と10条でふれていた件でのことをぶり返したように書いているな。

末筆においても怒りや呆れをひきずりつつ仕上げたのだろう。

すっごいね…。

手柄を挙げるか、出来なければ頭ツルツルにして出家するか、武士らしく〇んで来いの3つの内を選べってことか。

究極とはいうまいが最後通告だな。

その後親子がどうなったかは後々ふれることにしよう。

※ここまでの折檻状文は、我自刊我本を底本とし別途書き写したものです。その際、空白の変更や一部旧字は常用漢字に、二・ハなどのカタカナをひらがなに統一しており。ほかくずし字など当方では変換不可だった字も常用字へと変更しております(申・候など)。

表記の統一に少々問題もあるかもしれないが、勘弁してほしい。

さて折檻状にもあった本願寺との戦いだが、先にもいったとおり織田家と和解して終結を迎えるんだ。

これも1580(天正8)年のことで、事後に信盛親子へと折檻状が送られることになった。

同年に重なったということだな。

信長さんも「あー戦い終わった…せや! 信盛に手紙で説教したろ!」って感じ?

(どこかで見たような言い回しだな)

余談だが、この折檻状の原文は信長公本人による直筆とされている。

そもそも、公自身が筆をとることがあまりないらしいからな。

代わりに文をしたためる専用の者たちが居たというぞ。

へ? じゃあどーしても自分で書きたかった手紙なの?

現代でいうとそれだけ「ぶちキレて」いたのだな。

ぱっと見だけならば怒り・呆れ・さげすみ…負の感情の詰め合わせ文というワケだ。

ヒーッ! 怖い! 怖いよ!

(ジョワー…)

(また漏らしたか?)

ほかの本の折檻状部分

より信頼性が高い資料の1つとして伝わる、太田牛一直筆の信長記での折檻状部分も確認してみたぞ!

残念ながら本の画像などは諸事情により載せられないが、最初の文「父子~」から、文頭に書かれた一の字を数えると、きっちり19条あったことは視認できた。

おおー! じゃ19のキレ文はホントだったんだね!

確認のために岡山大学附属図書館の、古文書ギャラリーに収録されている、池田家文庫・信長記をWeb閲覧させていただいたぞ(感謝だな)。

巻第十三、見開きの空白ページを含め、100ページ目から16ページにわたっての文が折檻状の部分だな。

該当の文に関しては、申し訳ないが自身で確認を頼むぞ(検索すれば本のみでも容易に見つかると思うが)。

※反対に巻末から見開きの白紙ページを含めて巻頭に向かってページを進めると、ちょうど25ページ目に折檻状の始文が書かれています。なので該当部を閲覧するならカエデのように巻頭からページをめくるよりも、後ろからたどっていった方が早いです。

かろうじてってカエデにも読めなかったんだよね!

申し訳ない。

私とて多少読み書きはするのだが、この本に関しては部分的に読めるところを頼りに、大体の内容を把握することしか出来なんだ。

だが3条目の「丹波國~」・6条目の「やす田~」などの記載は我自刊我本の部分とも共通であったし、ほかもそうまでちがいないと判断した(おおよその内容に相違はないという意味だが)。

そもそも斜め読みというやつだが、てへ…。

てへって、可愛こぶっていわれても。

まあボクもチラ見したけど、俗にいうミミズがのたくった字だったね!

そういう失礼を言うな(解読できる者も現実には居るのだし、ぜひ教えを請いたいものだが)。

それに牛一は記憶力も良い人物と評されるほどだし、何なら「嘘を書いたら神罰が降る」という風な覚悟の元、文も何度も推敲し、修正もほどこして完成させたようなのだからな。

それにどんなくせ字であろうが、本人直筆とされるものが見られるだけでもありがたい話だと思うがな。

まあそうだろうけど…。

リンクも貼っていないが、調べればすぐ見られるし、それほど手間はかからないだろう。

むしろ牛一の筆跡を解読する方が大変だと思うが。

だろうね。

(何となくだけど読めない物を悪戦苦闘して解読するより、現代語訳の本から引用させてもらった方が効率的だったんじゃ……筆者とカエデの意地かな?)

その2

江戸時代に完成した信長公記の写本で甫庵信長記(ほあんしんちょうき)という名の本もあってな。

我自刊我本での折檻状の箇所と比べると、文にも細かなちがいが見られるんだ。

たとえば最初…。

太田牛一 輯録 ほか『信長記』巻13-14,元和8 [1622]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2544604 (参照 2024-04-03) 一部トリミング

これは甫庵信長記での1条目の文だが所領盗人といったように、さきほどの我自刊我本とのみ比べても記されていない文言が見られる。

今の文を私訳すると「お主ら親子は5年ものあいだ何の成果もあげていない、よって世間がお主らをただの領地(土地)泥棒とののしっても致し方ない」といったところだな。

おおむね内容こそ似ているが、ほかにも朝倉のおりでの信盛に関しての文では「信盛コトキノ臣下ハ…(お主ごときが)」と見られるあたり、独特の表現も少なくない。

もっともちがいはまだまだあるのだがな。

本ごとに書く人がちがうんじゃ、段々オリジナルとはなれてくってことだよね。

甫庵信長記はもとより創作性が強い本とされている。

甫庵という人物の価値観にもとづいて、脚色されたといっても良いだろう。

あくまで折檻状のところだけに着目したが、現在ではこの甫庵信長記に対し資料的価値が低いという見方もあるんだ。

各条文の頭にふられた一の字が13までしかないところも、ほかの本とのちがいになるだろうか(要約したといえばそうなんだが)。

別な本として読んだ方が良いってことかな?

そうだな、そういう風に割り切った方が良いかもしれない。

ほかにも3条目にふれるが、甫庵信長記では丹波國日向守…明智光秀のことが記されていない。

見落としでなければ、折檻状の箇所には一切出てこないな。

推察するに光秀は後に謀反を起こした反逆者ゆえ、誉れ高い武将像とはいえず、あえてその箇所を削ったのではないかとな。

へー、カエデの解釈も面白いね。

でもこんな風に写本ごと見比べるのも面白そうだよね!

(めんどいからボクはやんないけど)

(コチョンどのはぜったいにやらないだろうな)

もっとも研究者とはそういったことを当たり前に行う者たちだろうし、おかげで現代語訳の本が読めたり、新解釈が発見されたりするのだからな。

浅学な我々が趣味として行うにはいささか骨が折れそうだが。

※写本を含め信長の伝本は70以上存在するともいわれている。中でも牛一による自筆本で現存するものは極めて少なく、たとえば信長公を祀っている京都の建勲神社に納められている建勲神社本、武将・池田輝政へ献上された池田本などがあり、国の重要文化財に指定されている。なおここで折檻状内容の底本とさせていただいた我自刊我本は民間でも広く知られる写本で、明治14年に発行されたもの。

結果追放された

折檻状を受けてまもなく信盛たち親子は高野山へと追放されたそうだ。

その際の様子が描かれた絵が石山軍記という本にも残されているぞ。

次に※諸情報を記載したから絵は各々で見てほしいが……(該当本の著作関係でこれも画像を直接載せられないのだ)。

※土屋正義 編 ほか『絵本石山軍記』第3篇 巻之1-5 ,前川善兵衛,明16. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/ja/pid/877830/1/103

絵見たけど、ハンパないしょげっぷりだったわ。

めっちゃ哀愁ただよってるし。

ショボーンって。

だな。

それとこの時期の信長公は周辺の敵勢力をのきなみ倒し、天下統一が現実味を帯びてくるほど力を持っていた。

そんな大大名となった相手からの処分が追放で済み、まだマシだったのかもしれないな。

石山本願寺との戦いが終わった時期っていってたよね。

キリの良いところで部下の処遇にも目が向いた。

その目が信盛たちへ向いたのは必然だったのか。

今考えてみると折檻状は信盛たちに対する激励のようにも思えるんだ。

ここまで言わせたなら、流石に奮起して頑張ってくれるのではないかとな。

マジでそう思ってんの?

プラスマインドがぜんぶ持っていかれそうなんだけど。

厳しくされて伸びる気質の者も居るだろう?

残念ながら信盛親子は、そういう者たちではなかったのかもしれないな。

高野山への追放後まもなく、信盛は熊野の地において54歳で亡くなったそうだ。

信長記上で死因は病没とされているが、さまざまな説があってな、崖から転落死した説や暗〇説などもあるようだぞ。

キレられて追放されたまま死んじゃったんだ…。

あれ? 息子は?

息子の信栄はまもなくして許され、織田家へと帰参したらしい。

理由は信長公からの哀れみとされている。

そして信長公が本能寺の変で亡くなった後は秀吉公に仕えたそうだ。

なんでも1632(寛永)年、つまり江戸初期まで存命だったらしく、76歳で世を去ったという話だ。

せめて信盛が生きている時に許されてたら良かったのに。

でも息子は戦国武将の中でも、けっこう長く生きられた方なんだね。

ちょっと脱線するが、信長公に追放され帰参を許された武将の中には加賀百万石の礎を築いた前田利家も居るんだ。

利家は織田家において槍の又左とも称されるほどの猛将で、秀吉公の時代には五大老に抜擢されるまでとなった人物だが、若かりし頃に信長公が可愛がっていた茶坊主からバカにされ、激怒して斬ってしまったことで一度追放されているんだ。

後に無断で戦へ参加し、敵将の首を持ってきた功績を認められ、帰参を許されたというぞ。

逆境に強い武将であったのだな。

活躍の話

なんか散々だったけど、そこまで救いようのない人なのかな? 信盛って。

光秀や秀吉公といったほかの重臣と比べられ、態度にまで言及された手紙の内容も現に残っているからな。

後世での評価も低く見られてしまうのは、ある意味で仕方ないのかもしれないが。

信長さんに口ごたえしたり、息子も周りから嫌われていたっぽいしね。

色んな要素が積もっちゃったんだね。

だが一方で、信長公が家督を継ぐ以前からも多くの戦に参加し、少なからず手柄を挙げたとも伝わっているからな。

まったく役立たずの武将というワケでもないだろう。

それと信盛には退き佐久間の異名が付いていたのを知っているか?

退き佐久間?

退きって字入ってるけど、逃げることが上手いとか?

それならあんまカッコよくないなあ。

戦さは攻めることがすべてではなく、負けが見込まれる場合にはその時の判断や処置によって、残存する戦力にも大きなちがいが出る。

たとえば負け戦での退却時などは、殿(しんがり)の働きが大切になるぞ。

殿は味方の被害を最小限に抑えるため、軍の最後尾で敵の追撃をさばく盾というべき存在だ。

重要な役割ってこと?

そういうことだ。

信盛はこの殿での指揮が得意らしく、それで退き佐久間の異名が付いたという。

そう聞くと、何気にやり手に思えるね。

しかも殿が対応すべき敵は、戦勝の雰囲気に包まれて士気も高く、勢いづいている可能性がある。

つまり平時より追撃が激しいと考えるべきだろう。

その追撃を上手くいなすことが出来る者は果たして無能か……言うまでもないな?

ちょっと見方が変わって来たよ!

退き佐久間ってカッコいいね!

(もっとも、その確証となる戦が挙げられないというのもあるんだが……)

それと先の折檻状の中で天王寺砦の守りを固めたのみという話を、別な見方としてとらえると、信盛は大きな失敗はしていないことにならないか?

信長さんの采配ミスかと思ったけど?

それも1つの見方だが、本願寺への包囲網を固めつつ、ひたすら守りに徹していたのが幸いしてか、結果として壊滅的な損害は出なかったのだ。

つまり5年ものあいだ、強大な本願寺勢と一揆衆をけん制したうえで「双方にらみ合い」程度に留めたのは、ある意味で功績と呼べるのではないか?

下手に攻め込みいたずらに兵を消耗するくらいなら、持久戦に持ち込むのも1つの戦略ということだ。

でも信長さんからすると、もっと目に見えた成果が欲しかったんだよね。

敵の大将を討ち取るとかさ。

兵力にものをいわせた攻めや、調略による相手の弱体化を求めるなら確かに不足はあっただろう。

しかし信盛とて指揮を任される以前の天王寺の戦いでは、本願寺勢相手に第一陣の手勢として戦に加わっていたようだからな。

長きに渡った本願寺との戦いにおいて、まったく何もしなかったというワケでもない。

派手な実績があまりなかったってことかな。

ところでボクも本とかWebでちょびっと調べたけど、本願寺との戦いって、色んな勢力がごちゃごちゃしてるってイメージだな。

きちんと整理して覚えるの大変そうだったよ。

策略家としても優秀だった?

一説では長篠の戦いのおり、自らが信長公を裏切って敵方の武田家に付くという情報を流して、敵の油断を誘ったともされている。

敵方の総大将・武田勝頼公はそれを勝機とみなして進軍を開始するが、長篠の地で織田軍の鉄砲隊相手に大敗し、後に滅亡まで追い込まれたということだ。

めっちゃ立役者じゃん!

一見ヒキョウだけど、敵をあざむくにはまず味方からっていうやつ?
 
そういう作戦を使って味方が勝つきっかけを作ったんだし、それだけでも手柄っていえるんじゃない?

(だが、これに関しては信盛がわざわざ策を講じなくとも、戦上手の信玄公を失っていた武田勢はすでに弱体化していただろう)

(ならばどちらにしろ、織田の鉄砲隊には勝てなかったと思うが、無粋な話になってしまうだろうな……)

ずっと信長公推し?

信長公がうつけと呼ばれ、若い頃は手の付けられない暴れん坊だった話は有名だろう。

じつのところ信盛はその頃からすでに信長公を支持していたという。

周りの家臣たちが引いていた頃からな。

これは織田家の跡目争いが起こり、弟である信之側に加担する家臣たちが居た時も、信盛だけは心を貫いていたそうだ。

それって信長さんを推してたってことなんだよね?

すごい忠義心じゃん!

織田家中でほかにも有名な重臣といえば、柴田勝家の名も挙げられると思うが、勝家自身も元は信之を次の主君として推していたのだからな。

だからこそ、古くから自身を推していた信盛の後年には、期待を裏切られたと思ったのかもな。

結局、折檻状からの追放へと相成ったということか。

昔からの信長さん推しの人だっただけに、この展開は色々残念だよね…。

まとめ

①織田信長から直筆の折檻状(怒りの文書)を送られた佐久間信盛という武将が居た

②折檻状を送られた理由は5年間にわたり手柄をあげなかったほか、領地の管理能力・与力の扱い・人間性・果ては信長への口答えに関してなど、その内容が19にもわたって書かれている

③折檻状を受けてまもなく、信盛は高野山へ追放され、まもなく死去する。息子は後に許され、織田家に帰參した

怒りと呆れが入り混じった信長公からの手紙というのも、なかなかレアというやつだろう。

こと佐久間信盛とは「信長から折檻状を送られ、さらに追放された」という不名誉な評価が付された武将として語られ、調べるに当たりその様な話ばかりが出てくるのも事実だ。

一方では少なからず功績も挙げ、家臣の誰よりも信長公への忠義心があったかもしれないという話があまり目立たないのは残念なことだ。

表に出てこないような話もあるし、よくよく調べてみたら考え方がくつがえるようなこともあるもんね。

ボクも信長さんを最初から推してたとか、退き佐久間とかの話を聞かなかったら誤解したままだったもんね。

また折檻状とは関係ないが、度々名が挙がった柴田勝家が北陸に遠征した際にもちょっとした文を送っているんだ。

内容は細かい指示文らしいが。

うーん…心配性なのかな?

それとも意外と石橋を叩いて渡る性格なのかな。

どのような文を送ろうと信長公は神経質で筆まめな性格ともいえるだろう。

昔は電話もメールもないしね。

そりゃ手紙のやり取りがメインの連絡手段になるんだろうけど、もしそういうシステムが戦国時代にもあったら同じようなやり取りの感じだったのかなあ?

…そういうドラマとかあったような気がするけど。

絵文字なんかもフルに使いこなしている信長公が想像出来そうだな。

なにぶん新しいモノ好きの大名ゆえ、適応するのも早そうだ。

グループl〇neとか作ったりしてね。

…やはり想像が出来ないな。

うっかり既読スルーなどしたら、それこそこ〇されるのではないか。

悪口を誤爆するのも怖そうだよね。

光秀「こないだ殿にボコされた、マジで反乱起こしちゃおうかな」なメッセージをグループの方に送っちゃうとか。

本能寺の変がそういうノリで発生するのもどうかと思うが。

(というか誤爆した時点で阻止されるだろうが、後が恐ろしいことになるだろうな)

了。

参考資料

太田牛一 著『信長公記』巻之下,甫喜山景雄,明14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/781194 (参照 2024-03-20)コマ番号24-25より一部トリミング

太田牛一 輯録 ほか『信長記』巻13-14,元和8 [1622]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2544604 (参照 2024-03-20)コマ番号10-13より一部トリミング

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