江戸時代に十返舎一九(じっぺんしゃいっく)という作者が書いた東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)は当時のベストセラー本として知られている。
これは弥次郎兵衛・喜多八(やじろべえ・きたはち)という野郎コンビが東海道を旅する様子を、おもしろおかしく描いた滑稽本(こっけいぼん)というジャンルの1つだ。
ここでは本の舞台となった東海道をふくめてほか5つ存在する街道や、その特徴についておおまかにまとめている。
ところでサイト運営している身としてはそれこそ身もフタもないが、ご覧頂いているみなさんはなにもここで五街道の名前や特徴などを覚える必要はない(もし学校のテストや試験対策が目的ならば、学習専用のサイトや動画はほかにいくらでもあるからだ)。
ここではあくまで自分への備忘録程度で作成した文がほとんどだが「まあ見てやろうか」くらいの気持ちでも目を通して頂けることを前提に、可能なかぎり正確で分かりやすく、かつ当サイトキャラのセリフをメインにし、少しでも楽しく見られるよう心掛けて作成している。
もし他サイトや教科書・参考書などと合わせて見比べてもらえれば、読み物を作った身としては大変嬉しい。
今回は私たちが主役みたいなものだな!
頑張ってしゃべるぞ!
クッション役としてボクらが居るんだ。
じゃないと筆者のお堅くて長いだけの文なんて何の面白味もないと思うしねっ。
五街道とは
江戸を起点に日本各地を行き来しやすくするために整備された陸上路のことだよ。
まあ見出しにも書いているからアレだけど、つまり街道のことだよね。
中山・甲州・奥州・日光・東海道の五つが存在するぞ。
東海道はどこか頭に残りやすいが、ほかの街道は意識しないと中々覚えられないだろうな。
幕府のために整備された
江戸幕府を開いた初代将軍・徳川家康が1601(慶長6)年に、江戸~京都まで伝馬制(でんばせい)をしいたのが五街道のはじまりっていわれてるよ。
最初につくられたのがご存じ東海道だけど、公式に五街道の1つとして認定されたのは二代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の時代あたりになってからだね。
道を整備したワケは日本全国を統治・管理しやすくするためや、公務や参勤交代で江戸と各地を行き来しやすくするためなんだ。
それとほかの国に万一反乱をおこされちゃった時に、兵を派遣しやすくするためっていう目的もあったみたい。
ちなみにさっきの伝馬制ってのは、幕府の手紙や荷物を運ぶ人や馬を、場所ごとに交代させながら目的地に届けるシステムっていったらいいかな。
一言に道をつくるというのも大変なことだが。
いずれの街道も江戸の日本橋が起点になっているのだな。
うん、江戸から各地へ伸びているそれぞれの道がまさしく五街道さ。
途中でほかの街道と合流する道もあるんだけどね。
後々、それぞれの街道についてもう少しくわしく触れるよ!
関所とともに宿場も出来た
街道の各ポイントには関所が出来て、そこには大名が泊まるための本陣(ほんじん)や家来が泊まるための旅籠(はたご)っていう宿場が造られていったんだ。
ちなみに旅籠って今で言うご飯付き旅館をイメージすると良いよ。
五街道は後に旅人たちの通行道としても利用されたけど、当時は参勤交代する大名たちや幕府の役人が通るための道だったからね。
それぞれの宿場には公用のために人や馬を配置させていたんだってさ(さっきの伝馬制だね)。
その見返りに宿を経営することが許されていたんだって。
そうそう関所っていうのは通行人や所持品などを検査する場所なんだけど、関所を通過するためには通行手形の発行が必要なんだ。
手形の発行はお侍さんだったら仕えている領主に、一般の人なら住む地域の名主に頼んで発行してもらっていたんだ。
名主って今で言う町長さんや村長さんみたいなものだね。
あくまで幕府御用目的の道だからな。
ところで「入り鉄砲に出女(いりでっぽうにでおんな)」という言葉があるんだが、これは関所への鉄砲の持ち込みと、各地大名の人質として江戸屋敷で暮らす奥方や子が国へと関所を通って帰ることを指しているんだ。
それぞれが関所を通る際は厳しく調べられ、鉄砲手形や女性専用の女手形というものも必要とされた。
幕末あたりからは手形がなしでも通行出来るよう、規制がゆるくなったらしいがな。
やっぱり忍者なだけあってその時代あたりはくわしいね!
五街道が整備されるにつれて温泉観光や参詣をするための旅人も多くなって、宿場は経済的にもにぎやかになっていったんだね。
旅人たちにとっても良い休息場所だな。
目的地によってはそれなりに長旅にもなるだろうから、途中で足を休めるにしても宿場は好都合の場所だろうな。
あと道の整備については道幅を広げたり、路面に砂利や砂をまいて固めたりもしたんだ。
道路脇にはおもに松並木も植えられたんだって。
標高が高い所では杉や竹が多かったらしいけどね。
でもここまでやったら大分道っぽいのが思い浮かぶよね。
それと各街道の途中には一里(約4km)ごとに塚が立てられたんだ。
これは行きかう旅行者にとってもどこまで歩いたか、次の宿場までは後どのくらいかっていうのが分かる良い目印になったんだよ。
各街道の特徴
東海道
東海道は江戸・日本橋から京都・三条大橋(さんじょうおおはし)に向かって最初に整備された道だよ。
距離は約500km。京都までの宿場の数が53だから五十三次(ごじゅうさんつぎ)って呼ばれるんだ。大阪まで距離を伸ばした場合の4宿を含めると五十七次とも呼ばれるんだよ。
それと箱根八里(はこねはちり)っていう昔の歌にもあるように、途中には箱根の関所があって、通るためには荷物や人への厳しい検査が行われていたんだって。
五街道の関所のなかでも特に役人の目が厳しい場所だったみたい。
反面、宿場も多くて充実していたから旅人の往来ですごくにぎわっていたらしいんだ。
ちなみに東海道五十三次っていう有名な絵もあって、これは浮世絵師の歌川広重(うたがわひろしげ)によって描かれているね。
ちょっと脱線するけど永谷園のお茶漬けの素に付いてくるオマケで、東海道五十三次を描いたカードが入っていてさ。
筆者が集めていたらしいけど、コンプには途方もなくお茶漬け食べなきゃないとかで途中で断念したみたい。
中山道
「なかさんどう」と間違われるかも知れないが、正確な読み方は「なかせんどう」だ。
距離は現代の単位で換算すると約530kmでほかの街道と比べても一番長く、宿場数も69と一番多いんだ。
別名、木曽路(きそじ)とも呼ばれて険しい山道が多いぞ。過酷な山道が続くから休息場所として宿場が多く設置されていたのだろう。
温泉街としても名高い草津へと通じているが、実はここから東海道と合流しているんだ。
江戸から出立して草津温泉を目的地にする場合だが、これだと宿場の数は67に減る。あくまで69というのは江戸から京都までの宿場の数だな。
少し話がそれるが、この街道は私が要人からお役目を授かった時に、東西間を行き来するためよく使ったんだ。とは言え、主に走ったのは街道からはそれた獣道だがな。
以前、町娘に化けて関所を通ろうとしたことはあったが、検問時に役人がえらく体を触ってくるから叩きのめしたんだ。それから捕まって逃げるために結局時間が掛かってしまった。
以後は面倒をさけるために脇道から抜けるようにしたんだ。
スケベ役人に当たっちゃんだね。
でもそれって関所破りだよ……。
いくら忍者だからって、バレたら重罪だよ!
最悪、処刑されることもあったんだから。
ただ当時は関所の役人に袖の下(そでのした)を使って、通る時の検査を軽くしてもらったり、目こぼししてもらったりはあったらしいね。
そうそう袖の下って「わいろ」のことだよ。
金品を渡して関所を抜けようなんて関所破りよりも悪質に感じるけど、それで通す役人も相当ワルだね。
甲州街道
五街道のうち一番最後に整備された道だよ。距離は約220kmで、宿数は45だよ。
江戸から下諏訪(長野県)までの道だね。下諏訪からは中山道と合流して京都まで続いてるよ。
江戸から甲府(山梨県)までを表街道。
甲府から下諏訪までは裏街道って呼ばれているんだ。
江戸中頃からは商品の流通路としてにぎわった道らしいね。
各地の名産品もここを通って多く運ばれていったのかも。
国や規模こそちがうけど絹織物や食材なんかが運ばれていた大交易路のシルクロードみたいに、経済的にも重要な道だったんだろうね!
日光街道
江戸から日光(栃木県)間の街道だな。別名、日光道中とも言うんだ。
距離が約130kmで他の街道に比べると短く、宿場の数も21と少ないが、なにぶん家康公をまつる日光山へとつながる道だ。
徳川ゆかりの地だからか東海道の次に整備されたんだ。
1617(元和3)年にニ代将軍・秀忠公によって東照宮が造られてからは、参詣のために往来する人々も多かったんだぞ。
奥州街道
この街道も別名・奥州道中って呼ばれるんだ。
距離は約190kmで、宿場数は27だね。
江戸日本橋から東北の白河(福島県)までなんだけど、一説だと青森県津軽半島の三厩(みんまや)ってところまで続いてるって話もあるんだ。
でも幕府の管轄(管理している場所)が白河までだから、そこから青森までは延長の道って感じなんだ。
ちなみにこの街道は日本橋から宇都宮までは日光街道と合流しているんだよね。
要するに宇都宮から先の白河までが奥州街道として完全に独立している区間ってワケ。
一応さっきの距離と宿数は日本橋から白河までの総距離で出しているよ。
ややこしかったらごめんね。
五街道の覚え方
五街道のように数種類あるものの名称を暗記するには、やっぱり語呂合わせが良い。
これは日本でもっとも東西南北に位置する島を東南・西与・南沖・北択(とうなんさいよ、なんおきほくえ)。
つまり東が南鳥島(みなみとりしま)・西が与那国島(よなぐにじま)・南が沖ノ鳥島(おきのとりしま)・北が択捉島(えとろふとう)という言葉の略でソッコー覚えられた筆者の経験則だ。
今回、記事を書いた最大の目的は、筆者自身が五街道の名前を覚えてしまうためでもあった。そして覚え方は「中東の小鬼」に決めた。
「……ナニソレ?」と思われた方には、おしゃべり担当の二人に、この覚え方のくわしい説明をしてもらおうと思う。
ええと……中東はそれぞれの頭の漢字から、中山道と東海道。
小鬼はひらがなに直して「こおに」にする。「こ」は甲州街道「お」は奥州街道「に」は日光街道で覚えるんだっけ。
ボクはこれじゃ覚えらんないよ……。
人それぞれの覚え方があって、良いのではないか?
筆者殿はとりあえず頭文字だけ覚えたら、あとに続く文字は自然とついてくるって感覚らしいな!
いやまあ、語呂合わせってそういうものなんだけどさ。
一応、有名な覚え方「途中に置こう五街道」ってのもあって、こっちの方が断然頭に入りやすい様な……。これは東海道・中山・日光・奥州・甲州の順番での覚え方だね。
ところで、記事を見てくれている人は、もう暗記している物知りさんかな?
そうじゃなかったら筆者のでも、自分のオリジナルの語呂でも、好きな語呂で覚えていってくれると嬉しいな。
まとめ
色々と要素も多く予想外に長くなってしまった(単純に文章力の問題)ので、ここからは箇条書きでまとめようと思う。
- 五街道は全国の統治・管理や、幕府の治安を守るために造られた道
- 関所が設置され宿場も出来た。参勤交代の通り道でもある。
- 関所を通るには手形が必要
- 鉄砲の入出、大名の妻子の関所通行には特に目を光らせていた
- 関所破りは厳しく罰せられる
- 人と品物が行き来する交易路としても栄えた
- 最優先で整備されたのが東海道で、最後が甲州街道
- 一番距離が長く宿場数も多いのは、道の険しい中山道
- 一番距離が短く宿場数が少ないのは日光街道だが、徳川ゆかりの東照宮がある
イマイチまとめきれてない様な気もするが、ちなみに五街道以外は全て脇街道やその他の諸街道となる。
なお五街道の総距離はおよそ1600kmである(正確には1575km)。
アバウトなたとえにするとして本州の最東北の県・青森から、最南西の県・山口までの陸路距離がおよそ1500km。
つまり直線距離ではないにしろ、五街道トータルの長さは本州の右上から左下までのおおまかな距離よりも長くなるというワケだ。
ちょっとした蛇足情報だがかつての旅人たちは東海道を2週間くらいで歩き切ったとされている。
これは1日約36kmくらい歩かないとたどり着けない計算になる。
昔の人は相当足腰が強かったにちがいない。
けっこー長かったね……。
今回で数記事分はしゃべった気がするよ。
ところで、前からツッコもうと思ってたけど、カエデってそもそも何時代の人なの。特に今回はその時代をまるで見てきたかのようにしゃべってたし。
大体この令和に本物の忍者なんているわけないし、ひょっとして江戸からタイムスリップでもしてきた?
まさか、ただのコスプレじゃないよね……。
コチョン殿だって猫なのにしゃべれるのはなんでだ?
あまりそんなことを聞くと野暮になるぞ。
私はコチョン殿に心を許してはいるが、互いのことについては何もかも語るべきではないと思っているんだがな。
ツッコみたくなるのもわかるが、今はあくまで私を「一介の忍び」と認識してほしい。
あとコスプレとかいう仮装じゃないのだけは、この際はっきりさせておこう。
うーん……。
確かにボクがしゃべれる理由とかメタ的な話になるし、筆者もそこまで考えてこのサイト立ち上げてなかっただろうから、今回はスルーだね。
了。
参考資料
国土交通省 Ⅲ.近世の道 https://www.mlit.go.jp/road/michi-re/3-1.htm(参照2024/11/02)
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