博識でモノマネ好き?吉田松陰や西郷隆盛が認めた幕末志士・橋本左内

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ね、カエデ。

橋本左内(はしもとさない)って人、知ってる?

同じ偉人の吉田松陰や西郷隆盛にも一目置かれてた、すっげー人らしいんだよね。

本来はそれぞれ先生を付けるべき人物たちなんだがな。

その左内だが幕末の志士であり、医学・蘭学(オランダ由来の西洋学問)をも修得した秀才だというぞ。

ってことはお医者さんか学者さんだったの? しかも幕末志士だったんだ?

なんか異色の経歴っぽいけど、ボクその人のことあんまり知らなかったし、同じ学者タイプの偉人だったら、やっぱ松陰の方をイメージしちゃうかな。

日本史の教科書でも松陰と共に名が挙がる人物なのだが。

しかしな、橋本左内は知識だけではなく、茶目っ気も持ち合わせていたそうだぞ。

勉学に優れた知識人同士でも、松陰とはそこが大きくちがうところかもしれないな。

頭が良いだけじゃなくユーモアもあった人ってことかな?

そうだったらなんか親近感あるかも。

一体どんな人で何をした人なのか、ちょっぴり興味がわいてきたよ!

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ものまねをして楽しんでいた

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/) 作者:島田墨仙

1834(天保5)年4月19日、江戸末期、橋本佐内(橋本景岳)は、越前国(現在の福井県)の武家に生まれる。

藩お抱えの医師を父に持った左内も若くして医学・蘭学を学び、後に出向いた大阪では医師・緒方洪庵に師事。

さらに後の江戸遊学中は薩摩の志士・西郷隆盛らと交友を深め、有志の推薦で福井藩主・松平春嶽(松平慶永)の元、書院番として仕えるようになり、藩政に尽力するほか同藩学校で教鞭をふるう。

春嶽と共に慶喜を次期将軍として推す政治活動を行っていた最中、反対派だった大老・井伊直弼に目をつけられ1859(安政6)年11月1日、安政の大獄にて26才という若さで処刑された。

と、ここまでが歴史上での左内の略歴。

目まぐるしい生涯を若くして去った左内だが実は彼、ジョークや洒落(しゃれ)を言って人を笑わせていたなど、激烈カオスな幕末に生きた人物とは思えない面もあったという。

ある時はものまねをすることもあり、西郷隆盛の「えーえー」という独特な返事の仕方をマネて楽しんでいたというエピソードも残っている。

「先生は他人の應接振の眞似など仲々上手で就中中根雪江と大西郷の口眞似をしては笑つて居られた、中根は他と話をするのに何時もウーウーと返事をする、西郷はエーエーと返事をする、其のウーウーエーエーが如何にも目立つて可笑しとて、退屈になると其の眞似をして笑つて居られた」

山田秋甫 編『橋本左内言行録』,橋本左内言行録刊行会,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1177889 (参照 2023-09-09)75p.一部抜粋

※旧字に変換不可だったものは常用漢字に置き換え引用、ほか難読漢字と思われるものの読み方→應接振(おうせつぶり)眞似(まね)其(そ)

この話は昔から佐内に仕えていた人の語りで、要するにモノマネをしてあの西郷隆盛をいじっていたということ。

上手いかどうかは別にしてモノマネをする以上、その人(あるいは動物)をある程度観察する必要がある。

隆盛らと親交を深めながら彼のしぐさや口調もよく観察していたのかもしれない。

なお引用でも触れているが隆盛のほか、左内と交友がある※中根雪江(なかねゆきえ・せっこう)こともいじって返事マネもして楽しんでいたもよう。

果てはネコの鳴きまねも得意だと語っていたとか。

幕末の天才の1人とも評される偉人のモノマネが、どれほどのクオリティなのか個人的に聞いてみたい気もする。

※幕末志士で福井藩・藩士。佐内と共に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ・後の徳川慶喜のこと)次の徳川将軍に推した。後に薩摩藩と協力し国政に参加、新政府において「参与」という役職をもらった人。釣りが趣味というほのぼのな一面もあったらしい。

ちょっとサ○コパスな幼少期?

こんな逸話もあるぞ。

佐内が塾に通っていた12才の時、塾生仲間が負ったケガの上に熱くなった火ばしを当てるようにし、平然とこう言ったそうだ。

「切り傷の治し方はまだ知らないが、ヤケドの治し方なら知っている」

怖ッ!!

っていうか、なぜに?

ケガした人にさらにヤケド負わせようなんて、頭おかしい人なの?

口悪いぞ、これは日頃から左内に妬みを持った塾生のいやがらせから始まったらしいからな。

なにせ左内は神童と呼ばれるほど物覚えが良かったそうだし、武士の生まれでありつつ藩医の息子でもあった。

そんな佐内の家柄も知ってか、塾生の1人が妬みのため、わざと自分でケガを作り、本人に見せて困らせようと企んだ。

医者の息子ならケガくらいすぐ治してみせろと挑発したんだな。

秀才だったからジェラされたと、けっこうツラい幼少時代だね。

そんで腹立ってやりかえしたんだ?

でもさ。

ヤケドの治し方っていうかヤケドさせようとしてんじゃん!!

つまりはな、いったんヤケドを負わせてから、そのヤケドを治して証明してやろうということなんだ。

いささか強引だが力に頼らず、奇抜な方法でやり返したのは、将来並大抵の人物では収まらない感じをただよわせているな。

もちろん左内をいじめる者はそれ以降いなくなったというぞ。

シンプルにいじめた子が左内に引いただけなんじゃ。

普通は殴り合いのケンカになるか、やり返せなかったら親か先生に相談するかなんだろうけど。

……頭が良い人のキレ方ってそういうものなのかな?(サイ○パスが考えそうな方法みたいだけど)

そういう話だけじゃなく、ミカンが大好きでその場にあったミカンを全て食べてしまったという茶目っ気たっぷりな逸話もあるんだぞ♪

あ、そうなの……(茶目っ気っていうのかなソレ?)

医学の道から憂国志士の道へ

天保、つまり幕末の初め頃だな。

父が藩おかかえの医者を務める家柄からか、左内も幼少時から自然と医学を学んでいた。

後に本格的に蘭医学を習得するため、大阪で※緒方洪庵(おがたこうあん)に師事することになったんだ。

師事した時期は佐内がまだ16才の時とされているが、学問に対して並じゃない吸収力があり、稀に見る優秀な生徒だったようだ。

それと大阪に居た20才そこそこの頃、生活に困っている者の病もよく診る真面目で情にあふれた青年でもあったようだぞ。

※江戸時代後期の名医で蘭学者。当時の流行病だった天然痘を予防するワクチンを作った日本で最初の医者といわれている。適塾(てきじゅく)という蘭学塾も開き、その塾生には先の橋本佐内のほか、慶応義塾大学の創立者・福沢諭吉(今の一万円札に描かれた人)が居た。

とっても優しい人だったんだね!

20才くらいで医者ってのもスゴいな。

しかもさ、ほかの勉強も出来た人なんだよね?

うむ、書道や漢学にも精通していたようだ。

後に父親が亡くなると跡を継いで藩医となるんだが、その頃の日本には米国のペリーによる黒船が来航していた。

この出来事はわりと有名だな。

それならボクも知ってるー! ここから一気に明治時代まで進むんだよね!

激動の幕末ってやつでしょ?

そうだ、ここから明治維新までわずか15年ほどだからな。

一方で佐内はさらに学問を習得するため江戸へと向かった。

江戸では医学のみならず軍学なども学び、有志たちと交流を持つ様にもなったんだ。

なんかその時代の志士って江戸に行きがちだよね。

土佐の坂本龍馬や、長州の桂小五郎らの偉人も、若い頃は江戸で剣術修行をしていた時期があったからな。

(夢見て上京する青年みたいだな)

左内に関してだが、江戸の遊学中は学者の※佐久間象山とも交流があったというから、当人にとってもさぞ有益な時間であっただろうな。

やがて左内の気概や才能が有志たちに認められ、その推薦で福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に仕えるようになるんだ。

※幕末の兵学者。先ほどの坂本龍馬や、無血開城を実現させた勝海舟、松下村塾で教鞭をとった長州の吉田松陰など、幕末の名だたる偉人たちがこぞって師事した凄い人。

一気に人生変わったね。

お医者さんなのに国のことを心配するような気持ちになっちゃったワケだ。

ところで左内を推薦した人らって?

有志とかいってたけど。

その人物たちは鈴木主税(すずきちから)という福井藩の重臣や、先ほどものまねの話にも出た中根雪江らだな。

彼らとの交友もあって左内は見聞をより深め、国の将来をより真剣に考えるようになったんだな。

また水戸藩士の※藤田東湖(ふじたとうこ)や、あの西郷隆盛とも親交を持ったのもこのあたりだ。

※後に井伊直弼と対立する水戸藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の側近といわれた武士。安政の大地震(1855年11月11日に江戸市中を震源として発生した震度6弱~6強もの大地震)の際に落ちてきたがれきから母親をかばい、下敷きになって死去したという逸話を持つ人物。

ようやくせごどん(西郷隆盛)が出てきたね。

隆盛は当初、痩せ気味の左内の容姿を見て、大した人物ではないとタカをくくっていたようだ。

しかし、いざ左内と語り合う内に、その人柄や思慮深さに深く感心したという。

「自分の尊敬する先輩は藤田東湖だが、同輩なら橋本左内だ。この2人の知識や器には自分は到底及ばない」と後に語っていたほどにな。

あのせごどんにそこまで言わせるなんて!

元々知識豊富だし、話し方にもきっと説得力があったんだろうね。

藩での活躍

さて左内の藩内での役職は御書院番であったという。

これは藩主の側近武士ともいえる立場で、もともと※藩医だった左内の境遇を考えると大抜擢といっていい。

しかもこの頃左内はまだ22・23才だ。

※当時藩医は藩士よりも下の扱いで、藩医だった左内の書院番登用は二段飛び三段跳びの大出世とされた。

若くして大出世ってワケだね!

いくら優秀でも人からの推薦でそこまでなれるなんて。

よっぽど期待されてたんだね!

そうでなくてはこれほどの役は与えられないからな。

左内はそれから藩学校・明道館において教師として勤め、さらに後には学監のお役を授かる。

学監とは現在でいう校長や教頭などと同様の立場だな。

校長って……すっげ。

現代だとたいがいおじさんだよね(暴言かな)。

この明道館では天文・物理・測量・地学など、多岐に渡る西洋学問を教えていたそうだ。

もちろん教師でもある左内が、それらの知識も当たり前に持っていたことは想像に難くないな。

欧米の進んだ学問を熟知しているからこそ、日本人もこれらの知識を学べるように尽力したんだろう。

たとえ異国のものでも良いものは自国に取り入れるという革新的な考え方だな。

人や時代はまるでちがうけど、異国文化を積極的に取り入れるあたりはあの※信長みたい。

その考え方はボクもぜんぜんまちがっているとは思えないんだけどな。

※ご存じ、安土桃山時代の大名・織田信長。楽市楽座で商業の自由化を促進させ、西洋文化や宣教師の受け入れなど、革新的な政治を執り行った。

左内はその利点に着目していたし、海外諸国との貿易の重要性をたびたび語っていたという。

しかしこれは何も異国の者と仲良くしろというワケではないし、あくまで外国の優れた技術を取り入れ、日本をより良い国にするという意味で語っていたのだな。

そういう思想を持った者を広い意味で開国派と呼んだんだ。

もっとも諸外国の武力への恐れからくる、腰の引けた開国派も居たとは思うが。

左内が外国の学問にも精通してたからこその考え方だったんだね!

比べものにならないほど高度な技術力を持った諸外国が日本へ接近していること。

一方国内では藩や幕府、朝廷の力がまとまらない不安定な状況だったこと、江戸で出会った様々な志士との交流なども通して、日本の行く末を心配したからだろうな。

春嶽こそもともと開国には反対だったらしいが、左内の影響で少しづつ外交の重要性に気付いたという。

主君の心を変えるほどの根拠や熱意があったとして、春嶽自身も※幕末の四賢侯に数えられる人物だ。

元より賢明な人物であったからこそ、考え方を変える柔軟性も持ち合わせていたといえるな。

※幕末の四賢侯→福井藩主・松平春獄(慶永)宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬(後に弟の久光が引き継いだ)の四人を数えてそう呼ばれた。彼ら藩主、ひいて各藩は当時の幕政にも大きな影響力を持っていた、いわば別格のお殿様たち。

春嶽ってお殿様も立派な人なんだろうけど、まだ20代前半の左内が考えを変えさせたってのもエライこっちゃ。

でも、あれ?

左内って26才で亡くなった人なんだっけ。

ってことはそろそろ……。

安政の大獄にて

この頃は先ほど話にも出たペリーに続き、外交官タウンゼント・ハリスが外交関係を日本に迫った時期だな。

当時幕府はこうした諸外国とのやり取りに追われて切迫した状態だったんだ。

そういう情勢の中、一橋慶喜を次期将軍として立てることを持ち出す一派、一橋派が現れた。

派の筆頭は慶喜の実父で水戸藩主を務めた徳川斉昭(とくがわなりあき)とされているが、その活動には薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)らのほか春嶽と佐内も参加することになったんだ。

ひょっとして権力争いってやつが発生したのかな?

そのとおりだ、一方で次期将軍を家茂にしようとする幕府大老・井伊直弼らとの対立だな。

だがこの頃の直弼の権限は多大なもので、自身の考え方にそぐわない者たちをことごとく罰したとされている。

そして結果、一橋派の力も当然のごとく弱まっていった。

これが俗にいう安政の大獄だな。

1858(安政5)年から1年ほどに渡り起こった弾圧事件とされているぞ。

それも教科書とかで有名なやつだよね。

なんか権力者が逆らう人間を次々やっつけたみたいな、わるーい事件の1つって感じ。

表向きは幕府の暴虐(ぼうぎゃく)さが目立つ出来事だな。

この大獄では直弼と対立した中心人物の1人の春嶽らが隠居させられ、その者たちに加担した佐内も、江戸・伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)に投獄されることになるんだ。

ちなみに長州藩士の吉田松陰も直弼に目を付けられたため、同じく投獄となっている。

その辺の人たちも反乱分子みたいなものだから当然かあ。

やっぱ左内も捕まっちゃったんだね……。

当初は島流しで済む予定だったらしい(島流しもそれなりに重罪なんだが)。

が、直弼には将来自分にとって都合の悪い者になると思われたのか、刑罰が急に変えられたんだ。

え、まさか。

そうだ。

処刑されたんだ。

直弼の命令でな。

1859(安政6)年11月1日、橋本佐内、26の時。

斬首と伝わっている。

ヒドイ!

自分の都合だけで人を処刑するなんて!

幕府への反逆者として扱われたんだ。

大獄では左内のほかに、およそ100数名の人間が処罰されたという。

……なんか井伊直弼って自分に逆らった人を誰でも○ろす、すげー悪いやつって思えてきたよ。

なんでそんな奴が幕府のお偉いさんになれたのかぜんぜん分かんないんだけど。

コチョンどのの言いたいことは分かる。

一旦直弼については置いておくが、奇しくも佐内と同時期・同場所の獄中に居た松陰も、30才で処刑されこの世を去っている。

1859(安政6)年11月21日のことだから、左内が亡くなってからほどなくしてだな。

松陰も……。

もう手が付けられないね。

意志を貫いたとはいえ、志半ばで散るとはこのことだ。

それはそうと左内が処刑される前、牢内で遺したといわれる詩があるんだ。

二十六年夢の如くに過ぐ 平昔を顧思すれば感滋〻多し ※天祥の大節嘗て心折す 土室猶吟ず※正氣の歌

苦冤洗ひ難く恨禁じ難し 俯しては則ち悲傷し仰いでは則ち吟ず 昨夜城中霜始めて隕つ 誰か知らん松柏後凋の心を

枕を欹(そばだ)てゝ愁人夜の永きを愁ふ 陰風骨を刺す柝三更 皇天應に是れ幽寂を隣むなるべし 一點(いってん)の星華牖(まど)を照らして明かなり。

滋賀貞 著『青年橋本左内』,東京武蔵野書院,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1109712 (参照 2023-09-17)107p-108p.一部難読漢字に読み仮名やアスタリスク、太字を使用。旧字に変換不可だったものは常用漢字に置き換えています。

※天祥(てんしょう)→文天祥(ぶんてんしょう)とは南宋の宰相(大臣)を務めた人。役人になるための難関試験である科挙に首席で合格したいわば天才。

正氣の歌(しょうきのうた)→天祥が敵国につかまった際、牢屋の中で作った自国への忠義心を表した詩のこと。左内は天祥が国へと抱くその忠義心に感服していたようで、左内自身もこの時天祥と同じような思いにかられていたと思われる。

まるで意味分かんないし。

筆者が中途半端にルビふってるけど、それでもほかの漢字が難しくて読めないよ!

カエデが分かりやすく解説してよ。

昔の人間が書いた文とはそういうものなんだが。

だが確かにこのままではほとんど意味が分からないな。

よって出来るだけ分かりやすいように訳したものが次のものになるぞ。

自分が生きた26年は夢のようにあっという間に過ぎたし、昔を思い出すと様々なことを考えさせられる。以前から文天祥が抱く国への忠義心に感銘を受けていた、自分も天祥にならいこの牢中で正気の歌を読もうか。

無実を晴らすことが出来ず、罰せられるのが非常に無念で心残りである。
昨夜、初霜が降った時に思った。一体誰が分かるだろうか、困難に遭遇した時こそ人の真価が問われるということに。

横になりながら夜が長いことをしんみり考えていると、ふと寒気を感じるほど冷たい風が通りぬけ、夜更けになったことを実感させる。

きっと空は静かで寂しい牢内を哀れみ、一つ星の輝きで中を優しく照らしてくれていることだろう。

この訳についてはどこぞの正式な現代語訳をそのまま参考にしたワケではない(というか探せなかっただけなんだが)。

言葉の意味を調べつつ「大体こういうことを言っているんだろう」という風に、筆者どのが若干脚色して訳した程度のものにすぎない。

つまり私訳というやつで、誤りがあるかもしれないが許して欲しい。

もっとも死を待つのみとなっていた左内がいかなる心境だったか、まがりなりにも伝わると思うのだが。

超訳ってやつ?

まあ大きなまちがいさえなかったら、こんな風な訳だと分かりやすいけどね。

でももうすぐ死ぬっていうことを本人が分かっているからなのか、なんか寂しい詩だね。

どことなくだが穏やかな面持ちの詩にも感じるな。

うまく言い表せないが、尊敬する人物のまねをして詩を読み、無念でたまらない心持ちを落ち着かせているような。

そういう風に私は思っているぞ。

左内を偲ぶ松陰

左内と松陰が同時期に同じ伝馬町牢屋敷に入獄していたことは先ほどもいったな。

ただし獄舎がちがうゆえに、互いに面識はなかったという。

そして佐内が処刑されたのを知った松陰は強く悲しみ、後に遺著となった留魂録(りゅうこんろく)の中で、ぜひ左内と議論し合いたかったと記していたそうだ。

会ったことないのに悲しんでいたってちょっと不思議だね。

ウワサだけでも聞いていたのかな。

なんでも、牢内で松陰と一時同居した村田勝保(むらたかつやす)という人物が、以前に佐内とも同居していたことから、彼が語っていたことを松陰に聞かせたらしい。

その話から左内の教育や学問に対しての考え方が、自分と強く共通していることを知ったというぞ。

たとえ会わずとも親しみのような感情が、左内に対してわいたのかもしれないな。

なんか感動しちゃったよ。

もし佐内も松陰も処刑されないでいたらどうなっていたのかなあ?

あくまで想像だが左内も松陰も国に大きな影響を与える人物になっていただろうか。

日本を列強諸国に負けない国にしようという志が高く、見識や学問に秀でていることを周囲も理解していた両名だからこそ、とりわけ政治分野での要職に就き力を発揮していたかもな。

あるいは元の教育者として生き、誰も想像が付かないような、あらたな学問を見出すことすらあり得そうだが。

先生として生きていくんなら、松陰なら松下村大学とか左内なら明道館大学とか作りそうだね!

そうだな、あるいはそうなっていたかもしれないな。

もしそうなら偉大な教育者としての逸話もほかに生まれただろうか。

そうなってたら歴史もぜんぜんちがったよね、きっと。

ああ、そうだな。

(しかし松陰の場合は老中暗殺を企てていたなど、命のやり取りもいとわない過激さも持ち合わせていたと聞くし、存命だったとしても果たして……無粋になるゆえ、この考えは私の胸にしまっておこう)

お墓は公園内に

左内と両親が眠る墓は現在の福井県福井市・左内町の左内公園内にあるんだ。

当初左内の亡骸は最後の地である江戸に埋葬されていたが、後にかつての主君・春嶽によって故郷の福井へと移され、お家の菩提寺である善慶寺に改葬されたという。

春嶽自身は安政の大獄においての処分は隠居で済んでいたものの、一方で信頼する家来だった左内の方が処刑されたことにはさぞ胸を痛めていたことだろう。

よって左内の亡骸を故郷に戻し、手厚く葬ろうと尽力したのは当然のことだったんだな。

お墓が公園の中にあるってのも、のどかだよね。

激しい人生を送った左内が静かに眠る場所としては、すごく良い環境なのかも。

それに福井県は左内の出身地だし、まさしくゆかりの地って感じだね!

しかも左内町と左内公園ってやっぱ本人の名前からとったのかな。

偉人ゆかりの地名が付いたところはほかにもあるし、以外にはあり得ないだろうな。

だよね。

左内のやったことや考え方とかも、残った人たちがきっと語り継いていったんだろうね。

うむ、だからこそ偉人としても名が残っているんだ。

当の本人が後の日本を見ることが出来なかったことは惜しまれるが、諸外国との国交によって文明開化がはじまり、急速に近代化の道を歩むことになった。

ひとまずは左内が望んでいた一つの形になったのではないだろうか。

番外・井伊直弼

ちょっと話戻しちゃうけど、幕府って勝手に外国と条約結んじゃったんだよね?

日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)だっけ?(名前長いよね)

さっきのハリスが日本に迫ったってやつ。

本来は朝廷の許しも必要なはずがな。

職権乱用どころか、時の帝・孝明天皇を軽視した越権行為といっても良い。

しかも条約内容は米国側の都合が優先されたものばかりで、いわゆる不平等条約というものだ。

ともあれペリーが迫った日米和親条約と、ハリスとの修好通商条約の締結によって200年続いた鎖国がついに終わりを向かえたということだな。

確か鎖国って※徳川家光の時代に始まったことだよね?

200年くらい続いたんだっけ。

いっちゃなんだけど、直弼たちがそれを終わらせたような感じだよね?

※徳川幕府の三代将軍、ここではシンプルに参勤交代や鎖国を開始した人物とする

そうなったのは直弼というよりも、幕府の総意によるものと見るべきだろう。

もっとも直弼も開国派とされていたし、異国の人間を敵とする考えの攘夷派の志士たちから見ても、その存在は疎ましかったはずだ。

幕府独断での条約締結に朝廷側を激怒させ、一橋派・志士たちへの弾圧など、これを許すまじと思った者は内外問わず多かったにちがいない。

恨みを買っちゃったってことだね。

その結果、一橋派の水戸藩・薩摩藩の藩士によって暗殺されてしまうんだ。

直弼が44才の時だ。

これが俗にいう桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)と呼ばれる事件で1860(安政7)年3月24日に起きたとされているぞ。

……ちょっと気になった部分があるんだけど。

なんだ?

さっき左内も開国派って言ったよね?

なら同じ開国派の直弼が左内を処刑するって変じゃない?

良いところに気が付いたな。

しかし根底の考え方が同じとはいえ、立場もちがうし、味方同士とは限らないだろう。

むしろ左内とは次期将軍擁立の件で対立していたから、単に将来の危険分子と見なして処罰を下したといえる。

しかも左内らは直弼を失脚させる策も練っていたらしいから、この企みがバレていた可能性もあるな。

将軍推しで対立したことより、直弼に対してクーデターを企んでたっていう今の話が処刑の決定打って感じにも思えるなあ。

要するに直弼って自分にとって少しでも邪魔な人を許さない人なのかな。

そのままだとワンマン上司みたいで、ロクな人じゃないって感じだけど……。

だが歴史には裏表がある、直弼が左内や松陰を処罰したのは当人たちの影響力を認めたからこそともいえる。

それに政(まつりごと)においては※小田原評定(おだわらひょうじょう)のように、議論ばかりが長引いて、一向に物事が進まないことも起き得るだろう。

少しの決定遅れが国全体に多大な影響を及ぼしかねない難しい時代だったのだし、ともあれば即決の能力が直弼にはあったという見方も出来るな。

※相談事が延々と長引き、いつまでも答えが出ないことの例え。小田原城主・北条氏直が自国へ攻め込んでくる豊臣秀吉と和解するために家臣と案を巡らせたものの、結局答えが出ないまま国を滅ぼされてしまったことが由来。考えを巡らせることは良いが、それが長すぎても良くないことを表した教訓のような言葉。

そっか。

そういわれて見ると、人物像がまた少しちがってくるね。

それと当初から直弼は条約締結の件は天皇への説明と許しを請うべきとほかの幕閣、つまり幕府の首脳陣に訴えかけていたという話もあるんだぞ。

天皇の勅許を得るまでは、締結を引き延ばすように指示していたともいわれているな。

結果、ほかの幕閣に押し切られる形で条約は結ばれてしまうが、この話から直弼自身は比較的穏便に事を運ぼうとしていたのがうかがえるんだ。

そうなの?

それだとなんか賢明で慎重な人にも思えてくるなあ。

さっきの大獄の話だけなら、ただ強引で悪い人ってイメージで終わっちゃうもんね。

ほかにもあまり知られていない様な良き面が、井伊直弼という人物にはあるのかもな(その話はまた別な機会ということにしよう)。

余談だが、先ほどの桜田門については江戸城の外側・内側と2つ存在し、直弼暗殺事件が起きたのは外側の門近くとされている。

その外桜田門は高麗門(こうらいもん)とも呼ばれ、現在では国の重要文化財に指定されているという話だぞ。

15才で啓発本を書いた?

(ここからさらに長いが、今後別の読み物として分ける予定にするとして、とりあえずひとまとめにしたものの本当にえらく長い文になったと筆者どのが反省しているのは黙っておこう)

これも左内を語る上で外せない話だが、15才の頃に啓発録という本を書いているんだ。

こと偉人と呼ばれる者は名言を残すが、啓発録ではそれらの言葉にもとって代わるものが多く書かれている。

ちょっと聞いて良い?

んあ?

なんだ?

佐内ってその本を15才で書いたって言ったよね?

えっと、現代でいうとまだ中学3年か高校1年生くらいの時に本書いてんの?

若い時にお医者さんになったほかにも、そんな意識高いことやってたんだ。

そう伝わっているな。

そもそも啓発録とは佐内が先人に習って自身が理想とする生き方や、主君に対しての義の精神や武士としての心構えなどが書かれたものなんだ。

頭が良い上、精神的にもえらく成熟してるよね。

ってか難しそうな本~。

15なんて筆者の場合、盗んだバイクで走りだすような大胆なこともしないし、なんなら将来のことなんて何にも考えず、鼻たらしてピコピコゲームばっかりやってた時期だよ。

反対に佐内は自分の生き方に対してだけじゃなく、実は子供の頃から国のことまで考えて本を執筆したんだ……。

すっげーちがいだな。

なにぶん武士の時代に書かれたものだし、現代で生きる者にとって左内の苛烈な考え方にはムリを感じるかもしれない。

とはいえ佐内の場合は幼いころから学問に励んでいただけではなく、先の人生について志を高く持って生きていたことがこの本で分かるんだ。

ちなみに本人が書いたとされる文は昔に使われた漢字がほとんどで、訳して読むのは難しいかもしれない。

もし啓発録をしっかり読みたい場合は現代語に訳された文や本を探すと良いだろう。

昔の人が書いた文ってそのままだと難しくて読めないもんね。

さて話を進めるが、佐内は啓発録に五訓という五つの言葉を残している。

その内一つには「稚心(ちしん)を去る」というものがあるんだ。

意味は分かるか?

ニュアンスで言って良い?

「自分に甘えんな」ってことじゃない?

ざっくりすぎるが、まあそういうことだな。

大昔、源平の合戦が行われていた時代では12・3の年頃くらいにはすでに男子は親元を離れ合戦に参加していた者も多かった。

まだ子供といえる年齢からそうした環境で生きることが当たり前だった当時を考えると、安全なところでぬくぬくと遊んでばかりいて生きる人間に大事を成すことは出来ないということだな。

おおむねそういう事実を意識しつつ、左内自身も幼心を捨てそれを武士としての心構えの第一歩とすると語っているんだ。

それを15で主張したスゴさね。

でも実際そのくらいの年だと、なかなか真似できないことだと思うけど。

子供どころか大人すらそういった高尚さを持って生きることは難しいかもしれん。

とかく武士の時代ではない現代では経済的に自立することがやっとという者も少なくない。

だからこそだと思うが、そうならないために左内の言葉を教訓に生きることも一つの方法といっても良いだろう。

しかし物事が上手く行くためには運や人の縁といった要素も絡んでくるし、志一つで生きていけるほど甘くはないのが現実だ。

もっとも大事を成すどころか、私だって今日食べていくのがやっとなのだからな。

言うな。

結局あの時は食いぶちまで届かず、野山で魚や山菜を取って何とか生きているんだからな。

何ならほぼ日常的にそんな生活をしている。

(ある意味、しっかり自活出来ているよね)

ほか4つの言葉

啓発録に書かれたもので「稚心を去る」以外の4つの言葉と、そのおおなかな解説ものせておこう。

これらも武士として生きるための観点から書かれたものだが、立派な人間となるためという視点で見ても当てはまることが多いと思うぞ。

どれも満たせるような生き方が出来れば、そりゃ立派な人間になるだろうね。

ってかこんなことをまだ少年の時に考えてたってのがまだ信じられないよ……。

気を振う

何事も人に劣ることを恥として常に緊張感を持つべきとしている。

負けん気を起こせということだな。

なんかスポーツとか勝負事の世界で生きている選手とかに、こういう考え方の人多そうだね。

そうだな、負けず嫌いだからこそああいった分野で活躍出来るんだろう。

反対に気を振るわないふがいない者とはどういうものかも書かれているんだ。

ふがいないってことはダメダメってこと?

どういうの?

武芸の修練を怠り、欲に走って金・地位・女などを求めるような、この中ではとりわけそういう武士のことを言っている。

と、いうよりそれはもはや武士とは呼べないと思うが、左内もそういう中身がない肩書だけの存在に町民たちが頭を下げているに過ぎないと。

なら左内がいう気を振るった誠の武士とは、文武の修練をたゆまず行い忠義心を持って主のご恩に報いるべき存在だと強調しているように思えるな。

それは分かる気がする。

立派な武士って文武両道でみんなから尊敬されて、ちゃんと主に尽くす人じゃないとダメだよね。

もう1つ興味深いのは、ここでの左内は実際にふがいない武士たちを見てきたように嘆き語っているところが多い。

当時の武士はたとえるなら雷の音に恐れ、犬の吠える声を聞いても後ずさりをするような者らに成り果てたとまで言っているからな。

かつての戦国での武士は勇ましく戦う者が多かったが、左内の周囲には刀を差しているだけの名ばかり武士が多かったのだろう。

おかげでボクも左内のことちょぴっと分かってきたから、だらしないヘッポコ武士のことをボロクソ言いたくなるってのもうなずけるよ。

でも戦がない世の中で、武士も平和ボケしたっていえばそれまでなのかもよ。

しかもここで佐内はそれらの武士と比較して本田忠勝や井伊直正など、かの徳川家康公配下の猛将たちの名を挙げている。

もっとも太平の世ではかつての合戦のようなことは行われていないし、そういった勇猛な武士はもう現れないだろうと、どこか悲観的であきらめているようにも思えるな。

いやいや※ホンダムとか直正とかガチの人たちと比べてもダメでしょ。

※カプコン発売のアクションゲーム・戦国BASARAでにおいての本田忠勝の愛称。ロボットそのもののようないでたちや立ちふるまい(彼特有の効果音・出陣時の様子)からあの超有名なモ○ル○ーツをもじった名で呼ばれるようになったと思われる。ご本人は徳川家康に仕えた忠臣の1人であり、戦国最強の武将として名前が挙がることも少なくない。

志を立てる

志とはしっかり道を定めるということだな。

言わずとも分かると思うが、道とは物理的な「歩くための道」のことではなく生き方そのものを指している。

そしてその道をしっかり定めたなら時間を無駄せず、努力を惜しまず、脇目も振らずに突き進んで生きるべきということを語っている。

ちなみに啓発録では「志とは心がおもむく方向を意味し、自分の心が向っていく点について言ったもの」という感じで書かれているフシがあるが、要するに自らの生きるべき道を決めて進むというとらえ方で良いだろう。

なんか当たり前のこと言ってない?

要するに「夢に向かって突き進め!」ってことだよね?

またまたざっくりとした感じだが、そういうことで良いだろう。

だが左内は志というものについてさらに突き詰めて事細かに書いているし、志を旅そのものになぞらえて語っている部分があるな。

それは江戸から出発して、越前・近江へとたどりつくように、旅を続けるうちに足腰が弱い者でもいつかは自分の目的地へと到達できるという風に例えられているんだ。

また最初は才能を持たない者でも、自分が目標とする生き方にふさわしくない面を取り去って生きようとすれば、いつかは知恵を持つ者や勇猛な者にもなれるともな。

……あきらめないで頑張れってことだよね?

さっきから話半分で聞いていないか?

うん、内容がこってりすぎ。

砕いてみれば当たり前のこといってる気がするし。

これらを実行することこそが、難しいのだがな。

もっとも筆者どのも左内のあまりに完璧に生きようとするその姿勢には少々引いたらしいがな。

ただコチョンどのにも読者どのにも悪いが、ここで終わっては中途半端になるゆえこのまま続けさせてもらうぞ。

お菓子食べながら聞いていい?(モグモグ)

っていうか、もう食べているだろうに。

まあ良い、続けるぞ。

左内は高い志を持つ時とはどういうことか、そこに関してもしっかり書いているんだ。

そしてそれは全部で4つある。

そういう具体例が欲しかったよ(モグモグ)。

で、その4つって?

読書によって知った昔の偉人の経歴を参考に、自分もそうなろうと思うこと。

師友の様々な話を直接、または間接的に聞き、それらの影響を受けてふるい立つこと。

何かしらの苦難が立ちふさがった時、それに対して逆に奮起すること。

物事に感動したこと。

簡単に並べたが、おおむねこういった感じだ。

どうだ? どの言葉もやる気を起こすきっかけになりそうだと思えないか?

うん、なるなる(モグモグ)。

(あきらめるな、私)

いずれにしろ志を立ててもそれを達成出来なければ意味がないともしている。

では志を達成するにはどうすれば良いか。

手段の1つとして賢い人間が残した書物や、様々な歴史本から自分が強く刺激を受けた言葉や文を紙などに書いて「壁に貼ったり」「扇子などに書き記しておいたり」などしておくのが良いとしている。

あ、それはさらに具体的で分かりやすい方法だね!

ってか左内もそういう分かりやすいことをしてたんだね?

だがな、そうした言葉を日夜朝昼問わずながめて反省しながら、自分に足りない面を改善することが肝要だとしているぞ。

またそうしていく過程で自分の成長を実感するのを楽しむことも大切だともな。

そしてやはり学問をせずして志を達成することは出来ないと結んでいる。

結局勉強を重視するあたりはやっぱ彼らしいね。

だな。

その学問に対しての考え方というのは次でだな。

えーっ!

まだ続くの?

もう半分だ。

それにこの志についての部分はとりわけ重要だと思ったからな。

ほかはここまで長くしないからあと少しガマンしてくれ。

学に勉める

ここでいう学問とは自分より優れた人間の善い行いを真似することだと書かれているな。

たとえば忠義に厚く孝行心がある者の行動や考え方を観察して、ただちにそれに習うようにと。

詩文を書いたり書物を読んだりする一般的な学問はあくまで二の次だということも書かれている。

ふーん、一見読み書きしてお勉強することの方が大切だと思っちゃうよね。

よく分からなかったんだけど、立派な人の良い行動や考え方を真似ろってこと?

今回の左内についての読み物も最初モノマネの話からスタートしたから、真似をするってあたりがなんか繋がってきたね。

そうだ、そもそも学ぶは真似ぶ(まねぶ)という言葉が由来とされているし、まちがいではないな。

ここで書かれている重要なことは、優れた人間の善行を自分も習うという心掛けをふまえた上で、腰をすえて長い時間努力して知識を吸収するべきだという。

またここでの「勉」とは根気よく続けるため困難さに耐えるための、いわば忍耐力の養成のこととしている。

それと楽をするため勉学を短期間で終わらせようとしてはダメで、それだとうわべの知識しか身に付かず手柄や利益だけ追い求めたり、思いあがったりする人間になってしまうことについても書かれているな。

うっわー現代っ子のボクにはとてもムリな考え方だな。

わき目ふっちゃうよ!

それに今は色んな情報がネット1つで調べられるし、便利なツールだってたくさんあるから勉強するにもそういうの使うよね(何ならもう対話式のAIだってあるし)。

短い時間で楽に頭に入る方法があるならそれが正解だと思うんだけどなあ。

時代の流れだし悪いとまでは言わない。

しかし当時はそういう便利なものはなかったし、さっきも言ったがこれは心掛けの問題だ。

それに学習の手段がちがうだけで、本を読むのもネットを使って調べるのも同じことで、いずれも理解が進まない程度の時間のかけ方ではダメだということだろう。

また中途半端な勉強しかしていないのに自分は知識豊富なんだとカンちがいをした時の対策として、良き友人を選び影響を与えてもらうべきなんだな。

その肝心の友人の選び方というのは次で触れるぞ。

交友を択ぶ

同じ出身・学校それに同世代の友を大切にするのは当たり前だが、その中でも自分にとって損をする相手か得をする相手かきちんと判断して付き合うべきだとしている。

とりわけ遊び友達のような者はいざ自分を救ってくれるほどの者ではないともいっているな。

お友達はよく選べってことでしょ。

でも遊んだりご飯食べに行ったりする関係も大事だと思うんだけどなあ。

必要最低限の付き合いであれば問題ないだろうが、遊ぶ程度の関係ならその相手とはあまり深く付き合わず、自分自身を見失うなということだ。

一方で自分に良い影響を与えてくれる友人は、こちらから進み出て付き合うようにするべきだとしている。

でも具体的にどうすればいいのさ?

その基準も書かれているが、平等で正しく勇気がある者・温厚で誠実な者・元気があって決断力がある者・頭が良く明るい性格の者・懐が深く良悪それぞれの人間とも分けへだてなく付き合える者。

これらの友と付き合うのが良いとしているぞ。

でもさ、そんな「人が出来ている」タイプって今時そうそう居るもんかね?

確かにいつの時代も冷たい人間や歪んだ気性の者も少なくないし、単純に日々の生活に追われて心の余裕が無くなっている者も居るだろう。

だが皆がそうだとは言い切れないし、たまに居るだろう?

見せかけだけではない朗らかさと優しさがあり、それにどことなく惹き付けられる人間が。

そういう者が居たら、積極的に交流を持てということだ。

うーん、じゃあ縁があればそういう人との関係は大切にした方が良いんだね。

そうだな(そうは言ったもののやはり現代では珍しい類の人間ではあるのだがな)。

ちなみに先ほどの良悪それぞれの人間と分けへだてなく付き合える人物とは、少々欠点があるような人間とも普通に接することが出来る器の大きい者のことだ。

文字通り悪人を許せということではないから、そこはかんちがいしないようにしたいな。

自分自身へのメッセージ

ここまでが啓発録の内容をかみ砕いたものだったが、どうだ?

……すごくよく分かったよ!

ウソついてるだろう?

適当に返事しているのが分かるぞ。

まあ、私も書かれた内容のどこを抜き出そうか四苦八苦したが(本来はもっと事細かに書かれている本だしな)。

ごめん! やっぱあんまり分かってない!

大体ストイックすぎるんだもん。

この本に書かれてることってさ、妥協することも気を抜くことも一切ダメみたいなこと言ってるじゃん。

そんな生き方してたら肩こっちゃうよ。

無理もないし、コチョン殿の言うことにも一理ある。

大体私とて忍びの身だが、左内のように高い志は持っていない。

まして天下国家の役に立とうなど大それたことも考えていないし、そもそもそれは忍びとしての生き方ではないからな。

それにさっきも似たようなことを言ったと思うが、これはあくまで左内が自分自身を奮起させるために書いたものでもあって、ほかの者にこうしろと強要まで迫ったものではないと思うがな。

それなら良いんだけど、やっぱりまだ15才の人が考えることじゃないよね。

だが啓発録の最後の方に書かれた所感のようなものを読むと、とらえ方が少しちがってくると思うぞ。

この時期の左内はむしろ自分の至らなさやふがいなさを強く感じ、寝る時などは涙したと語っているんだ。

本人の志が高いというのは事実だが、一方で立派な人物にならなければという重圧で泣いていたあたり、繊細な少年らしさも持っていたようにも感じられるのだがな。

ありゃ、意外と繊細なところもあったんだね。

本人の志が高いというのは事実だが、一方で立派な人物にならなければという重圧で泣いていたあたり、繊細な少年らしさも持っていたようにも感じられるのだがな。

それとこれも最後の方を読まないと気付きづらいのだが、ゆくゆくは医者ではなく武士として国の役に立ちたいとすでに思っていたようなんだ(後々藩政に参加することになるのだから、ある意味で目標は叶ったのだな)。

ともあれ、啓発録とは自己啓発のための文であるとともに、至らない自分への激励の手紙でもあったと私は考えている。

将来の自分あてに書いたものにも思えるね。

今でいうと学生時代、ノートとかに熱いメッセージ書いてたりしてさ!

もし左内が書いた文を後から読んで「キャーはずかしい!」ってなってたら、面白いけどね。

なっていたらしいぞ。

あ、マジで?

啓発録を書いた10年後の話だが、本箱に置かれていたのを偶然見つけ、当時は浅はかなものを書いたと反省していたらしい。

黒歴史を見付けちゃったってやつだね。

それこそ学生時代に書いたポエム的なものを見返したみたいになったんじゃない?

むしろ世の中に対しての反抗心や、自身のやる気などの熱量は昔の方が上だったかもしれないと言っているな。

その後清書してほかの者に読ませ参考にさせたともしている。

そこがすごいとこだなあ。

普通自分が物心付いた時に情熱に任せて書いた文なんて、人に見せたくないもんね!

左内は啓発録をふたたび読み返す機会があったとして、その時こそ恥ずかしい文だと思わなければ幸福だと語っている。

しかし、この時点で左内はすでに24・5才。

それからまもなく世を去っているのだから、これを読み返すことはついに叶わなかったということだ。

そう考えると左内の生涯とはあまりに目まぐるしく、晩年はまさしく夢のように過ぎ去っていったのだな。

そのとらえ方だと、一気に切なくなるね……。

ホントはこういうのって隅から隅まで読んで、ちゃんと理解しないとダメな本なんだろうけどさ。

でも部分的にでも意味はちょびっと分かったから、身がしまる思いになるよね(ボクはお菓子食べながら聞いてたけど)。

その言葉を本人に聞かせたいものだ。

後世の者がそう思えるきっかけとなったなら、左内も本望かもしれないな。

見た目は……

余談だが、左内の外見についても触れておこう。

なんでも実物はやせていて色白、優し気な雰囲気を持つ婦人の様だったという。

ガリ勉な人ってあまり食べて無さそうで、確かにやせっぽちなイメージあるけど、婦人って女っぽかったってこと?

てか最初の方に肖像画なかったっけ?

ん? もっかい見るか?

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/) 作者:島田墨仙

女っぽくはないよね。

むしろさすが志士っていう凛とした感じだけど(見た目がホントにこうだとして、モノマネとかするキャラだってのはマジ意外だな)。

実際に面識のある人物の話だと、先ほどのように伝わっているんだが、果たして……というところだな。

ちなみにこの肖像画は明治から昭和初期までを生きた島田墨仙(しまだぼくせん)という画家が描いたものだ。

もっとも墨仙がこれを描いたのはすでに左内が亡くなって数十年後だというし、左内の存命中には墨仙も産まれていなかった。

要するに実物を見て描いてはいないということだな。

じゃあまた別な人が描いた絵を参考にしたか、もしくは人づてや本で見聞きした左内の外見とか性格を想像しつつ描いたんだろうね。

それともちょっと盛って描いてたりする?

墨仙は左内を尊敬していたというから、脳内で美化して描くというのもあり得そうだが。

確かにこの肖像画を見るに婦人のようだというにはムリがあるが、優し気というところは当てはまっていると思うぞ。

それに威厳があってそれこそ凛としていたともいわれている。

その話だけでも左内の外見を想像させる手助けにはなっていると思うぞ。

まとめ

①幕末の志士・橋本佐内は、幼少から勉学に精通した秀才、その一方で交友があった西郷隆盛や、中根雪江といった偉人たちのものまねをして楽しんだという遊び心も持っていた

②啓発録という本を15才の時に書いており「稚心を去れ」のほか五訓の啓発文を心掛けとして記している。

③後に医者の身分から福井藩の書院番として藩主・松平春嶽に仕え、次期将軍に一橋慶喜を(のちの徳川慶喜)を推す政治活動を春嶽と共に行っていた最中、反対派閥の幕府大老・井伊直弼により、吉田松陰と同時期に安政の大獄で処刑される。

すごく頭良いのに、モノマネとかして楽しむ幕末の志士ってなかなか居ないよね。

でもぜんぜん若いうちに死んじゃったのはホントに残念だよね。

さっきも言ったけど生きてたらもっと大きなことが出来そうな人だったのに。

世に影響力を与えるほどの人間が目立って行動したのだから、死の危険ととなり合わせなのは仕方ないことだろうな。

結果、井伊直弼から見て藩主の春嶽よりも政治的に危険な者だと思われたんだろう。

もっとも啓発録を書いた15才の時、戦国の世では若者が父母に別れを告げ、初陣で手柄をあげたということを教訓にするような人物だ。

その頃から相応の覚悟を持って生きていたにちがいない。

ボクにはそんなのムリだな。

基本のどかにのびのび生きていたいもんね(だってネコだもん)。

それと左内を称賛していた西郷隆盛についてだが※西南戦争での死の間際まで、左内からの手紙を大切に持っていたそうだ。

友情からかそれとも尊敬からか、あるいは両方だったか。

そもそも面識すらない吉田松陰に、死ぬ前に語り合いたかったとまで評されたんだ。

左内はこれらの人物たちにとって、一目も二目も置かれる存在だったのだろうな。

※1877(明治10)年2月15日に起こった西郷隆盛率いる薩摩軍と新政府軍との戦い。およそ半年以上続いた大規模な内乱で軍・民間とわず多数の犠牲者を出した。結果は政府軍の勝利で、隆盛は銃弾での負傷後、自決した。国内最後の内戦でもあり、戦争終結と同時に武士の時代も終わりを迎えた。

偉人の中の偉人って感じだね。

ボクは左内みたいにストイックで、早熟な考え方はとても持てないから、やっぱりのんびりゲームでもして、美味しいもの食べて悠々と生きていきたいな。

……そういや少しお腹空いてきたな。

のども乾いたし。

ミカンでも食べるか?

農家から余ったのをもらったが、沢山あるぞ。

100個くらい。

食べるけど、ボクは左内ほどミカン好きじゃないからね。

あ、ちなみにホントの猫ちゃんは柑橘系キライな子多いからね。

実はともかく皮は食べさせるのも触らせるのもダメだよ。

含まれるリモネンって成分が猫ちゃんの身体に良くないんだ。

大切なことだな。

おお、しかも左内がモノマネを得意とした猫と、左内の好物だったミカンとで奇しくも話がつながったじゃないか。

オチのムリヤリ感ハンパない!

了。

参考資料

山田秋甫 編『橋本左内言行録』,橋本左内言行録刊行会,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1177889 (参照 2023-09-06)

滋賀貞 著『青年橋本左内』,東京武蔵野書院,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1109712 (参照 2023-09-18)

橋本左内 (景岳) 著『啓発録』,金原喜一,明30.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/755258 (参照 2023-09-17)。

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